2014年06月12日

岐路


岐(わかれる・ふたまた)路。分かれ道のことだ。支は,細い小枝を手にした姿で,枝の原字だとされる。枝状に別れた山道というのが,原意らしい。

分かれ道については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163550.html

に書いたが,「わかれ」といっても,分かれ,訣れ,別れ,とある。

分は,合の反対,ものを別々にわける。
別は,弁別,これはこれ,彼は彼と区別する。
判は,分に断の意を兼ねて,判別,判決。
頒は,分かち賜う意。
析は,斤にて木をわる意。
訣は,永く別れる意。

と,わかれるだけでも,これだけある。分かれ道にも,それだけの意味がある。

そういえば,田中英光が,『さようなら』のなかで,

「人生即別離」とは唐詩選の一句,それを井伏さんが,「サヨナラダケガ人生ダ」と訳し,太宰さんが絶筆「グッドバイ」の解題に,この原句と訳を引用し…,

と書いていた。そう,どこかでも書いたが,原句は,于武陵の,

勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵)
満酌不須辞 (満酌辞するを須いず)
花發多風雨 (花發けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)

だそうで,それを,井伏鱒二は,

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生だ

と訳した。

一期一会

に通じるのだろうが,と思って調べていたら,寺山修司が,

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう

という詩を書いているという。調べると,『さよならだけが人生ならば』という題で,

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。

となっている。ついでに載っていたのは,カルメン・マキに贈った,『だいせんじがけだらなよさ』という詩も,寺山修司にはある。

さみしくなると言ってみる ひとりぼっちのおまじない
わかれた人の思い出を わすれるためのおまじない
だいせんじがけだらなよさ だいせんじがけだらなよさ

さかさに読むとあの人が おしえてくれた歌になる
さよならだけがじんせいだ
さよならだけがじんせいだ

寺山修司なりのこだわりを,この詩に書いたことが分かる。(「だいせんじがけだらなよさ」はさよなら云々を逆さにしている)。

人は二度死ぬ,

というのは,柳田國男が言ったのだとばかり思い込んでいたが,クリスチャン・ボルタンスキ―というフランスの芸術家が言った言葉だ,と言う説もあり,

たった1人でも,だれかがあなたを思っている。だれもあなたのことを思わなくなったら,人はこの世からいなくなって消えてしまう,

ネイティブアメリカンのブラックウルフ族の伝承という説もあり,真偽は分からない。ともかく,

人は二度死ぬ,

そう思うと,別れにも,二度の別れがあり,

面影

が残っているだけ,あるいは,別れは終わっていない,と言うこともできる。

別れ道は,しかし,一つを捨てることだ,それを捨てたことにこだわることは,そこで決断ができなかったことだ。ならば,戻った方がいい。心にそれを残したままでは,心は,未来ではなく,過去を見続けていることになるから。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
田中英光『さようなら』(現代社)
井伏鱒二『厄除け詩集』(筑摩書房)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:13| Comment(0) | 別れ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください