2014年06月13日
異和
異和については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163545.html
で書いた。異和は,違和より,ちょっと突出した感覚だが,昨今そう感じることが多くなった。
同じ時代に生き,同じものを見ているのに,自分は違うという違和感である。最近死んだ友人が,そう見ていたという感覚がよくわかる気がしている。
同じ場所で飲み食いはしていても,自分たちとはちょっと隔てがあったのではないか。たとえば,
こいつらが飲み食いしている,いつかそのときには自分はいないな…,
という感覚である。ひよっとすると,一緒にそのとき,その場にいて,同じ空気を吸っていても,見える地平が違っていたのかもしれない。
ふと思う。
それぞれが自分の天寿というか,寿命のベルトコンベアに乗っている。並んでいるように見えて,何年か先が切れている,と感じたとき,
ああ,そこには僕はいないんだな,
という感覚である。寂しさとか悲しさという感覚とは別で,もっと乾いた,
隔て
である。大袈裟な言い方をすると,
異空間にいる
という感じである。来年は,
ここで一緒に飲むことはできないのだな,
と友人が,僕らに感じていたのではないか,という隔て,というか,
隔絶感
を,いま自分がよくわかる,気がする。
未来のその時空にはいない,
という感覚は,説明のしようのない,隔てなのである。
行き先の違う仕分けのベルトコンベアに乗っているのに,一瞬は,そのとき,その場所に一緒にいる。そういう感じである。他のコンベアがまだ走っているところには,僕のベルトは切れている,その感覚である。
寂しさとか,哀しみとは違う,乾いた
違う
という感覚,違和感としか言いようはない。その感覚を伝えようがない,というのも含めて,隔たりなのである。
会話の声が,ときに遠くになる。
かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ
空と花と
おしころす声で
だがやさしく
しずかに
といわれたまま
位置は そこへ
やすらぎつづけた(石原吉郎「墓」)
止まった時間と,まだ運び続けているという時間の感覚の差と言ってもいい。
ここでわかれることに
する
みぎへ行くにせよ
ひだりへ行くにせよ(石原吉郎「死んだ男へ」)
ふいに思い出した,谷川俊太郎が詩を書き,武満徹が作曲した曲があった。
死んだ男の
残したものは
一人の妻と
一人の子供
他には何も
残さなかった
墓石ひとつ
残さなかった(「死んだ男の残したものは」)
反戦歌なのだが,時代的にも,個人的にも,いま,身につまされる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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