2014年06月17日

謀叛


谷口研語『明智光秀』を読む。

本能寺の変で一躍歴史に名を残したが,さて,では事跡はというと,ほとんどが残っていない。歴史に登場したのは,彼の生涯五十数年のうち,

後期の足かけ十四年,

である。

その十四年間で光秀は,一介の浪人から,当時の日本でベストテン入りするだろうほどの権勢者へと成り上がった。

と著者は言う。しかし,

これはまったく信長の十四年間と重なるのであり,光秀の伝記を書くはずが,信長外伝になってしまう可能性がある。

とまえがきで書いた著者は,彼についてのほとんどが本能寺の変に関わるもので,本書執筆にあたって,

一つは,「本能寺の変の原因をさぐる」という視点を意識的に避けたこと,
もう一つは,江戸時代の著作物をできるだけ排除したこと,

の二点を留意した,という。結果として,実は,信長抜きでは,ほとんどその人生のない,という伝記になっていることは否めない。

唯一歴史に残った,本能寺の変の前年に光秀の制定した,

家中軍法

も著者に言わせると,

こんなことで戦争ができるのか,

と言わしめる代物らしいが,その後書きで,

瓦礫沈淪の輩を召出され,あまつさえ莫太の御人数を預け下さる,

と書いた。その本人が,「預け下さ」つた主を,翌年弑するのだから,人生は分からない。

その光秀の「瓦礫沈淪」の前半生については,ほとんど分からない。確かなのは,

「永禄六年諸役人附」

の足軽衆の末尾にある「明智」が,光秀と推測される,という程度である。だから,土岐の流れとかと言われる光秀だが,正体は,

光秀と室町幕府との関係は,義昭以前にさかのぼるものではなかったと結論するのが妥当だろう,

ということになる。明智を名乗っているが,

どこの馬の骨か分からない,

ものが,兄義輝の暗殺で担ぎ出され,あちこち転々とする義昭の,まあどさくさに紛れて足軽衆に潜り込んだ,というのが実態ではないのか,と勘繰りたくなる。光秀は,

細川の兵部太夫が中間にてありしを引き立て,中国の名誉に信長厚恩にて召遣わさる,

と多聞院日記にある,というし,ルイス=フロイスは,

彼はもとより高貴の出ではなく,信長の治世の初期には公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していたが,その才略・深慮・狡猾さにより,信長の寵愛を受けることになり,主君とその恩恵を利することをわきまえていた,

と『日本史』に書いた。

まずは,幕臣細川藤孝の知遇を得,信長との交渉役を経て,世に出て行ったということになる。

光秀が『信長公記』に登場するのは,上洛した義昭が,撤退したはずの三好三人衆らに,宿所の本圀寺を襲撃された折,その防戦に当たった人数の中に,

明智十兵衛

として,である。その一年後の,元亀元年の浅井・朝倉勢三万が南下した志賀の陣では,二,三百を抱えるほどになっている。さらに山門焼き討ち後,近江志賀郡を与えられ,坂本に城を築城するに至る。城持ち大名になったのである。

翌年元亀二年,摂津高槻へ出陣した折には,一千人をひきており,四年後の天正三年には,すでに二千人を率いるまでになっている。そして丹波・丹後平定を経て,丹波一国を拝領した後の,天正八年以降は,一万を超える軍勢を擁するのである。

例の佐久間信盛折檻状では,

日向守は丹波国を平定して天下の面目をほどこした,

と,外様にもかかわらず,織田家中第一の働きをしていると,名指され,ひるがえって宿老の信盛の怠慢を責めるだしに使われるほどになっていくのである。

にもかかわらず,備中出陣のため,わずかな人数で上洛した信長の虚をつくかたちでも謀反を起こしたのである。著者は言う。

光秀の心の葛藤をとやかく詮索しても所詮わかろうはずがないが,積極的にせよ消極的にせよ,信長に取ってかわろうという意志はあったとしなければならない。変後の行動,すなわち近江の平定,安土城の接収,朝廷・五山への配慮,細川・筒井両氏の勧誘,そして山崎の合戦,この流れをみれば否定できないだろう。そして,軍事的な背景についていえば,光秀にとって千載一遇,またとないチャンスであったことははっきりしている。

その背景について,与力の筒井のあわただしい動きから,筒井順慶,光秀に,信長から,何らかの指示があったのではないか,と推測する。

「謀反」があまりにも突然のことであり,しかも何の準備もなかったらしいから,光秀をして決断させた(信長から指示された)何事かがあったはずである。

と推測する。それを,著者は,光秀を中心に,細川藤孝,筒井順慶を与力とする体制の解体にある,とみている。

前にも書いたが,フロイスの言う通り,光秀評を,

裏切りや密会を好み,刑を科するに残酷で,独裁的でもあったが,己を偽装するのに抜け目がなく,戦争においては謀略を得意とし,忍耐力に富み,計略と策略の達人であった。また築城のことに造詣が深く,優れた建築手腕の持ち主で,選び抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた,

という,

一筋縄ではいかない,したたかで有能な戦国武将,

というイメージで見るとき,光秀も,

そういうことなら,おのれが,

と,信長にとって代わりたい,と思うに至ることはありうる,とは思う。しかし,そこまで追い詰めたのが,信長の何がしかの指示だとすると,結局,光秀は,

信長に振り回された,

というか,信長の光に照らし出された一人だということができる。しかし,変後の処理を見ると,どうもちょっと,器が小さかったのではないか,という気がしないでもない。変後の秀吉の周到な手際に比べると,光秀は,

おのれを見誤った,

ような気がしてならない。


参考文献;
谷口研語『明智光秀』(洋泉社歴史y新書)




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posted by Toshi at 04:59| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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