2014年06月21日

自己完結


最近芝居を観る機会があった。

なんとなく,鬱々として楽しまなかった。自分の個人的事情が大きいが,それだけではない気がしている。芝居のことは何たるかが,まったく分からない素人なので,まあ勘弁してもらうが,芝居は,それ自体は面白いと言えば言えるが,予定通りと言えば予定通り,

予定調和

というのとはちょっと違うが,

自己完結

した感じがしてならなかった。

芝居は,ひとつの舞台に自己完結しているものなのではないか,と突っ込みが入りそうだが,観客と相互作用がないとか,観客が面白がっていないとか,舞台と観客席が隔たっているとか,といった類いのことが言いたいのではない。

芝居が,その舞台の中だけで完結している,というのは,いまの時代とも,いま生きている我々の文脈とも何の交差もないという意味だ。

昔,清水邦夫『真情あふるる軽薄さ』(初演1969年)を蜷川幸雄が,何十年ぶりかで再演したのを観たことがある。以前に書いたかもしれないが,無残なものだったと思う。とりわけ強烈なメッセージがある作品だから,時代背景を抜いてしまうと,何の不条理劇にもならない,笑いが滑るのと同じく,観客と全く文脈を異にしていることが露呈した。舞台のホリゾントを抜いて,いきなり現実の渋谷とバックがつながったが,そういう奇抜なアイデアも,僕には空回りにしか見えなかった。

それは,同じ清水の『タンゴ・冬の終わりに』の再演でも感じた。この作品が,僕の大好きな,ベストワンに指を折る思い入れのある作品のせいばかりでもない。僕が最初に見たのは,平幹二郎と松本典子(この人の声は,FM東京でおなじみだったの)だが,二人の朗々と響きわたる声に魅了されたものだ。再演は,堤真一と秋山菜津子だったが,僕には無残としか見えなかった。役者の資質の重さが全く違うというだけではなく,時代の差が大きい。

前者は,外へ向かって,声を高らかに掲げる,そういう時代の語りだ。それは,初演時の時代背景と合っている。後者は,内向きの語りだ。それも再演の時代背景にはあっている。しかし,この脚本自体は,あるいは清水は,そのときの時代と格闘している。その時代の文脈を負った作品なのだ。再演時,二人の役者も,蜷川も,時代との格闘を忘れている,としか言いようがなかった。だから,無残なのである。

以来,蜷川は見ない…と言いながら,やはり清水の『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』の再演を観てしまった。これも,また堤。まったく無残の上塗りであった。あの内にこもる声は,清水の旧作のもつ外向きのエネルギーとはまったく合わない。堤が下手かどうかを見極める力は僕にはないが,時代と格闘していない人間であることは間違いない。あるいは,そういう劇だという認識に欠けている。それは蜷川の責任である。正直,こういう作品での彼は,二度と見たくないと感じた。テレビ向きなのではないか(失礼!)。

それは,作品が時代と格闘しているのに,演出家も演者も,まったく自己の内面でも格闘せず,自己完結した世界の中で,上っ面をなぞって,空回りするエネルギーに,むなしさを感じた。精神は,高らかに何事かを語ろうとしているのに,肉体は,その意を対しきれず,ただの芝居をしている。

自己完結してはいけない,

とりわけ,舞台がその時代の生きている精神と格闘していたものの場合,それを見ている観客の精神をも相手にしていたはずである。それは,時代精神として,観客とも共有化されていた。しかし時代の文脈を客が共有化しないとき,芝居は,舞台で,自己完結せざるを得ない。そのときの空隙に,ギャップに,どれほど敏感なのだろうか。特に,再演時には,それに過敏でなくてはならない。

だからと言って,露骨に時代と格闘する(ふりをする)芝居を観たいというのではない。いかにも,という作品は,それはそれで予定調和で,面白いものではない。ただ,作り手が今の時代の時代感覚をどこまで意識しているかは,舞台に出る,と感じている。

矛盾するようだが,逆の言い方をすると,時代がどうあろうと,時代に屹立して,自己完結させる,という世界はありうるかもしれない。今日まで残っているシェイクスピアの劇のように,それだけで,自立した,

自己完結した劇的世界

にまで凝集する,というのはあるのかもしれない。

しかし,それは,時代ではなく,人間,あるいは人間社会の本質と対峙した何かでなくてはならないのだろう。

だとしても,いま大きな時代の曲がり角にある。戦後の破綻が,これほど露骨に露呈している時代はない。笑い転げているその足元に,死と恐怖が忍び寄っている。そういう時代に,少なくとも,僕は,

予定調和,



自己完結

もない。それどころではない,という危機感がある。だから,破調こそが,基本トーンなのだと思う。日常の底のうすら寒さや,平安の底の淵や,そういう微妙な日常感覚からすると,

まとめてしまう,

あるいは

丸めてしまう

というのは,しっくりこない。

棒を呑まされたような,

腹の底にずしりの残る

異和感,

のようなものが,あっていい。つくづくそう思った。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:49| Comment(0) | 演劇 | 更新情報をチェックする
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