視圏
持っている言葉によって,見える世界が違う。
と,ヴィトゲンシュタインが言ったと思い込んでいるが,見当たらない。あるいは,
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する
をそう読み替えたのかもしれない。いずれにしても,持っている言葉が,
その人の世界
を限る。
確か,僕の理解では,敗戦に対する思想的な決着として,和辻哲郎は『鎖国』を書いた。鎖国とは,
鎖された国の状態
を指すのではなく,
国を鎖す行動
を意味すると,わざわざ断っていた。その中で,象徴的に,
視圏
という言葉を使っていたように思う。視線の射程を指す。見える視界の違い,である。われわれはいま,その深刻な反省を忘れて,同じく,
国を鎖す行動
をとろうとする為政者に引っ張られて,いつか来た道を歩かされようとしている気がしてならない。相変わらず,
視圏
が,狭く,短く,自己完結している。むしろ,閉鎖的で,自己肥大ですらある。夜郎自大のことである。その言葉で,見てほしい視界があった,といってもいい。
ところで,ランボーの詩(「母音」)に,
Aは黒,Eは白,Iは赤,Uは緑,Oは青,
というフレーズがある。さらに,『地獄の季節』には,
俺は母音の色を発明した。――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した。(「錯亂Ⅱ」)
とある。たまに,文字に色が見える人があるようだから,ランボーもそうなのかもしれない。「青」「緑」という,そのとき彼の見ていた色がどういう緑色,青色だったかまでは,確かめようはない。
直前の青と
直後のみどりは
衝撃のようにうつくしい
不幸の巨きさへ
そのはげしさで
つりあうように(石原吉郎「不幸」)
あおは,
蒼,青,藍,碧,
とある。「あお」は,
アオカ(明らか)
が語源であろうとされている。だから,藍から藍,緑までを,「あお」と呼んだ。
みどりは,
緑,碧,翠,
とあてる。「みどり」は,
「水+トオル(通・透)」
を語源とする説があり,「緑」をあてる。ミズミズしさ,をミドリと言ったとする。だから,ミドリの黒髪,みずみずしいミドリゴ,若葉の透き通るようなミドリ等々と使われる。
いまひとつ,「カワセミの古語,ソニドリ,ソミドリ」から来たという説もある。
古代日本には,アオ,クロ,シロ,アオしか色名がなかったとされるので,「アオ」の中に,含まれてしまう。「みどり」という語が登場するのは平安時代になってからである,といわれる。
海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である
むしろ色彩へは耳を
紺青のよどみとなる
ふかい安堵へは
耳を(「耳を」)
このとき,青であって,蒼でも,藍でも,碧でもない。そのことに意味がある。とすれば,使う文字によって,見てほしい視界がある,といっていい。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163545.html
でも書いたが,吉本隆明が,違和ではなく,
異和
と表現するには,その言葉の向こうに,見てほしい世界があるからなのではないか。
言葉を選べは,藍と蒼と青と碧では,見える色が違う。
しかし,為政者は,ひとつの言葉で,丸めて言う。例えば,戦後,自衛という言葉を弄びつづけて,とうとう閾値をこえるところまで来た。かつて,防衛線という言葉を弄んで,中国に侵略し続け,ついに対米戦に踏み出したのを思い出す。気をつけないと,見ている世界が違う。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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