2014年06月24日
革命
藤田達生『天下統一』を読む。
サブタイトルに,「信長と秀吉が成し遂げた『革命』」とある。何が革命なのか。
著者は冒頭でこう言う。
私たちは,戦国大名領国制の深化,すなわち分権化の延長線上に天下人による統一,即ち集権化があることを,何の矛盾もなく当然のように考えてきたのではないか。近年においても,天下人信長と秀吉や光秀らの数ヵ国を預かる国主級重臣との関係を,戦国大名と支城主の関係と同質ととらえ,戦国大名領国制の延長と見る研究が発表されている。
例えば,『戦国大名』では,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395650739.html
のように,延長と見ている。その中間にあるのは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html?1393535997
の信長論かもしれない。
本書では,
天下統一戦とは,極端に言えば,織田信長以外の武将は誰も考えなかった「非常識」な戦争だった。
集権化とは,戦国時代末期になってはじめて信長が意識的に推進した政策だったことが重要なのだ。天下統一とは,天下人率いる武士団の精神構造も含めた価値観の転換があってなしえたもので,信長や秀吉の改革については奇跡的とさえ言えるのではないか。
という問題意識で展開されている。その意味で,真正面から,
天下統一,
というもののもたらしたものを洗い出している,と言えそうである。
集権化を支えた信長の軍事力の秘密を解く鍵は,実は戦闘者集団である武士と生産者集団である百姓との身分と居住区の截然たる分離,即ち兵農分離にある。これに関連して信長と他の戦国大名との際だった違いとして本拠地移転に着目した。
尾張統一以後,清州(愛知県清須市)→小牧山(愛知県小牧市)→岐阜(岐阜市)→安土(滋賀県近江八幡市)へと本城を移動させるたびに,信長は家臣団に引っ越しを強制させた。長年住み慣れた本領を捨てて,主君と運命を共有する軍団を目指したのである。
こういう兵農分離は,信長の直属軍に,その端緒がある。
近習と足軽隊に重きを置く戦術は,尾張時代の信長の特徴だった。千人に満たない規模の直属軍が,軍事カリスマ信長の意志にもっとも忠実に従う軍団の中核を形成した…,
とされる。その例証で,
信長の軍団の兵農分離は,直属軍からはじまった。
とする。たとえば,有名な,斎藤道三との会談の時,「三間中柄の朱やり五百本」ときされているように,主力の長槍隊は三間柄,あるいは三間半柄を揃えさせていた,というのは,
信長が長さばかりか色も含めて同じ規格の者を大量に準備し,足軽たちに装備したものである。これは,もはや従来のような自前の武装ではなくなっていたことを物語っている。
長槍は長いほど重くしなることから統一的な操作が難しく,日常的に足軽たちに軍事訓練を課さねば,大規模な槍衾を組織的に編成することはできなかった。
そしてさらにこう断言する。
長槍隊に属した足軽たちはサラリーマン的にリクルートされていたことになる。そうすると,信長の軍事的成功は莫大な銭貨蓄積に支えられていたとの見通しが立つ。
事実,信長家臣の中には,商人的家臣の存在があり,津島,熱田,清州という領内拠点都市の有力者を家臣として従え,その商業的特権を保護し,必要な物資や莫大な銭貨を獲得した。それが,
軍団の兵農分離を促進した,
と,著者は見る。
その信長の新たな秩序作りの嚆矢を,天正八年,信長から大和・摂津・河内における一国全域規模の城割(城館の破却)を命ぜられたことに見る。
大和おいては,郡山城を除いて,国中すべてが破却され,これには一国の人夫が動員され,監督のための上使も派遣され,かなり徹底的になされた。この意味は,
城主だった国人・土豪層で在村を選択したものはやがて帰農したのである。要するに,城割によって兵農の地域的分離が進展する
ことになる。さらに,信長は,
重臣と与力大名が協力して領国支配をおこなうよう指導し,城割や築城そして検地に関わる最終決定もおこなっていることが判明する。光秀は,与力大名の細川氏や一色氏に対する軍事指揮権は預けられているが,最終的なそれは,信長が握っている。
そして,戦国大名の延長線上にあるのではない信長像を,こう言う。
織田領の全知行権は信長に属し,勝家クラスの重臣だったとしても,あくまでもそれを預かっている代官に過ぎないと,その本質を理解すべきである。たとえば重臣層は,正面きって信長からの転封命令を拒めたのだろうか。
いまや,信長の一声で,
縁もゆかりもない他国へと,転封によって占領支配をおこなう時代,つまり鉢植大名の時代になったのである。
それが可能になったのは,
中世武士の所領は交換不可能であったが,検地による所領の石高表示…により,それが初めて可能になったことは革命的といってよい。
つまり,城割,検地はセットであり,それが鉢植大名化をもたらすと同時に,軍役に大きな変化をもたらす。
石高制による領主所領の把握は,彼らに対する軍事奉公即ち軍役の賦課基準の確定
をも目的としたものであり,例えば,現存する明智軍法では,百石が最低単位で,
主人が六人の家来を引き連れることを規定している。そして百石以上の所領をもつ家臣については,動員すべき侍・軍馬・旗指物持・槍持・幟持・鉄砲衆の具体的数が示されている…。
この信長の到達したのは,
家臣団に本領を安堵したり新恩を給与したりする伝統的な主従関係のありかたを否定し,大名クラスの家臣個人の実力を査定し,能力に応じて領地・領民・城郭を預ける預治思想
だった,と著者は主張する。それは,
父祖伝来の領地すなわち本領を守り抜く中世武士の価値観が,将軍を頂点とする伝統的な権威構造を再生産し,戦国動乱を長期化し泥沼化させた原因であると判断した。(中略)信長とその後継者秀吉による天下統一戦は,全国の領主から本主権を奪って収公し,あらためて有能な人物を国主大名以下の領主として任命し,領土・領民・城郭を預ける「革命」だった。
当然,この延長戦の上に,秀吉が来る。この分岐点を小牧・長久手の戦いと,著者は見る。これは,
織田体制を継承しようとする信雄と,独自の政権構想を掲げて天下人をめざす秀吉との,「天下分け目の戦い」といっていい,
と。この直後,全国規模の国替を強制し,
それまで同輩的な関係にあった諸大名を命令ひとつで転封可能な鉢植大名にして,彼らに対する絶対的な主従関係を確立した。
最終的には,
天下統一戦を通じて家康をはじめ伊達政宗・上杉景勝などの大大名まで転封させたことである。旧主で織田氏家督であり秀吉に次ぐ正二位内大臣という高位高官にあった織田信雄でさえ,転封命令に服さねば改易に処され…
るところまでの権力を掌握したのである。
信長や秀吉の新領地に対する統治を「仕置」とよび,秀吉の段階で城割・検地・刀狩などの統一策が占領マニュアルとして盛り込まれ(仕置令),一大名によって一国単位で強制された。…これらを性急に強行しようとした国々では,牢人衆―かつての大名家臣だった国人や土豪たち―をリーダーとする激烈な仕置反対一揆が頻発した。
天下人たちは,それを公儀に対する反逆と位置づけて,麾下の大名に命じて徹底的に虐殺した。
その結果,
天下統一戦を通じて,秀吉は麾下の大名領主に対して本領を収公し他所への知行替を強行して鉢植化し,民衆からは武装蜂起すなわち一揆の自由と居留の自由を刀狩令と土地緊縛策によって奪った。秀吉は天下統一によって,中世における領主と民衆の根本的な権利を剥奪したといえよう。
この先に江戸時代の幕藩体制が来るが,このとき,大名は,
将軍から「大事な御国を預」かっている
という認識に変わる。もはや,自らの武力で領国を切り取る戦国大名の面影も消えている。その時代になって初めて,武士道という作法が,逆に,必要になってくるということなのだろう。
参考文献;
藤田達生『天下統一』(中公新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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