2014年06月25日

姿勢


成瀬悟策『姿勢のふしぎ』を読む。

脳性マヒで動かないはずの腕が,催眠中に挙がったという事実に直面したのがことの始まりで,それ以来三十数年を経て今なお,人の「動作」というものの面白さに取り付かれっぱなしの状態,

という著者の,

肢体不自由者の「動作訓練」と並んで,動作による心理療法を「動作療法」とし,両者を合わせて「臨床動作法」と呼ぶ,

独自の治療効果のある療法の臨床実験の報告になっている。脳性まひから始まった対象は,いまや,脳卒中のリハビリ,四重肩,五十肩,自閉症,筋ジスからスポーツまで,幅広く応用範囲が広がっている。

その基本は,脳性マヒでの実証が背景になっている。

催眠暗示でリラックスできてもそれだけなら醒めれば元に戻りやすいということもあって,催眠に頼らずに同様の効果がえられないか…,

という課題から出発し,ジェイコブソンの「漸進弛緩法」を手掛かりに,

筋緊張のみられる肩や腕,腰や膝,足首などの関節をまず他動的に抑えて緊張させてから,押さえている力を弱めて筋弛緩をはかりながら,緊張感から弛緩感への体験変化を感じ取らせることで,リラックスしていこう,

というやり方に辿り着き,その効果に気づく。(ジェイコブソンについては,著者の別の本『リラクセーション』でも触れた。)

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163475.html

その効果は,

脳性マヒの子の手足が動くか動かないかというとき,ただ単に「動く」というだけでなく「動きすぎるほど動く」…,それこそ本当の話なのです。例えば手足を動かしたりしゃべつたり,からだで何かをしようとするとき,きまって腕や脚が突っ張ったり,その腕が後ろへ跳ね上がるように動いたり,肘を強く屈げて胸へ抱え込む,頸が緊張して頭が俯いたり前後に動く,そっぽをむく,などの動きや緊張はごくふつうにみられることです。

それを,

こうして動きすぎるほどよく動くにもかかわらず,そのからだは本人の気持ちや意思とは関係なく勝手に動いてしまい,どう努力しても自分の思うようには自分のからだを動かせないというのがこの子たちの本当の特徴なのです。

ととらえ,それまでの

動かない,動かせないなどととして捉え,「動かない」ことを基礎にしてこの子たちの特徴,

として考えた,いままでの理論や訓練への明確な反論となっている。そして,こう捉える。

脳の病変で肢体を不自由にしているのは,その病変が脳・神経系や,筋・骨格系のような生理的な機能に影響するというよりも,そのからだの持ち主である主体の自分のからだを動かすためのキーの押し方に影響して,それを未熟,不適切または不全にし,あるいは誤らせたりするため,主体の思うようには動かせなくなると考えるのが最も事実に合っているように思われます。すなわち,肢不自由をもたらした脳の病変は,生理的な過程に直接影響するというよりも,主体が自体を動かす心理的な活動を歪めるのが原因なので,たとえ脳の動きに関わる部分から,脳・神経系,筋・骨格系への生理的,物理的過程に異常がなくても,結果として不自由になるということになるわけです。

つまり,

この子たちのからだは病理学的に動かないのではなく,生理的には動く自分のからだを,その主体者が自分の思うようには動かせないだけ,

なのだから,

適切に動かせば動くようになるものなのです。

ということになる。もちろん,

何もこの子たちを健常者に近づけようなどとしているわけではけっしてありません。その子がもって生まれた体の機能,心の可能性を無駄なく,無理なく,なるべく充分に伸ばし,できるだけ生きがいのある豊かな人生を送れるように援助しようとしている…,

のである。では具体的にどうするのか。

動作のための努力は,まず「動かそう」として自分のからだへ働きかけることから始まります。例えば,握手を意としてそれを実現しようとするとき,まず握手するために必要な力を入れて腕を伸ばし,手を出し,握ろうとします。そうなるように主体は自分のからだに働きかけます。それは……腕に力を入れる感じ,伸ばしていく腕の感じ,手を出す感じ,相手の手を握るために入れる力の感じなどの実感を確かめながら,自分が実際にからだへ働きかけの努力をしていることをからだで実感することです。
動かそうと努力した結果,自分のからだのどこが,どのように動いているのか,現実のからだの動きを冷静かつ客観的に把握し確認するという努力は,動作において欠かすことができません。例えば,握手のとき,腕に力が入っている,腕は適切に伸びている,相手に向かってちょうどいいところまで手は出ている,手は相手の手を確かに握っている,相手の握り返す手を確かに感じている,などというような確かめる努力をしなければなりません。しかもそれは,……握手という動きの進行につれて,一コマ一コマにそのつど意図通り,ないし働きかけ通りに動いているか否かを現在進行形で確かめながら,動きの過程を進めることになります。

このプロセスは,ひょっとすると,スキーを覚えたり,自転車に乗ったりと何か新しいことを身体で覚えていく時と,変わらないのかもしれない。思い出すのは,このプロセスを細密にたどって,ポリオで動けない自分のからだを動けるように再学習したミルトン・エリクソンのエピソードであったが,

このように,自分の主体的な努力によって自分の意図通りの動きを実現した時,それをめざして活動している自分自身の努力活動の状況を自らのものとして実感することを「主動感」と呼んでいます。意図通りの動きが出来れば成功したと満足し,うまくいかなければ失敗したと反省するにせよ,いずれもそれは自分自身の責任によるものとして捉えるのは,それが自分がやったものという「主動感」の裏付けがあるからほかなりません。

この普通の人にとって意識もしない動作を,意識してたどっていく「動作体験」について,こんなことを書いています。

最近は脳性マヒも重度になり,しかも,ほかの傷害が重複して寝たきりの子が(対象として)増えてきました。こんな子たちの教育や訓練には,言葉が役立たないので動作が最も主要な手段になります。それまで寝たきりだった子が,独りでお坐り(あぐら坐り)できたときの独特の動作はまことに感動的です。補助の手を放したとき,全身にグッと緊張がはしって倒れずに坐位で踏ん張れた瞬間,眼がパッチリと見開き,右から左へ,さらに左から右へとゆっくり顔を動かして見回すのです。しかも,その直後からその子が大変化をします。それまで稚く弱弱しかった表情や仕草がしっかりと生き生きしたものに変わってくるのです。その後の心身の成長もまた驚くほど急速になっていくものです。

これを,

タテ系動作訓練法

と名付けていますが,ヨコからタテになることが人にとっていかに大事なのか,という視点から,立つ,について,

人が自分で立てるためには,重力にそって大地の上へ自体をタテにまっすぐ立てられるように彼自身が適切な力を全身に入れなければならないことが分かります。その力は,全身の筋群すべてを統合してからだに基軸をつくり,それをタテ直に立てようとするものですから,これを体軸ないし身体軸として捉えることができます。

として,次のような効果を挙げている。

この体軸は,……自分のからだの全筋群を統合して,初めて形成される彼自身の努力の結晶です。

また,「タテ直一本に通る心棒」として,

自分のからだをタテに立てられるようになると,表情や市靴などの自分自身に対する主体の対応が大変化するだけでなく,身体軸を外界の環境を受け容れて認知し,理解するための手掛かりにしようとします。

そして,

体軸が立てられるようになって外界の認知と対応がしっかりしてくるのは,彼がそれを原点として前後,上下,左右という三次元の座標軸において外界空間を捉え,自分の体軸を基準にして,その枠組みの中にそれを位置づけられるようになったことを意味します。

さらに,

時間の経過に伴って,この体軸が自分自身のよりどころとしての自体軸となって,外界が自分の中でそれぞれのものとして位置づけられてくるにしたがい,彼の心の中で,自分の置かれている外界全体が四次元世界として構成されてきます。その世界を自分と関係づけて認知し,対応し,あるいは活きかけ,活きかけられる基軸が考えられます。それは自分のからだという単なる身体軸にとどまらない主体的活動の中軸ですから,それを「自己軸」と呼ぶことができるでしょう。

こう見ると,ただの姿勢というより,立つ,ということの人間にとっての重要性が際立つ。著者は,よい姿勢とは,と,こうまとめる。

まず頸から肩,および背中から腰までの軀幹部が屈にも反にもならすぜ,自体軸がしっかり直に立てられていること,そしてお尻が引けず,股関節と膝が反らず屈がらず,まっすぐであること…。それらの節の部位がカタチの上でタテ直になっていればよいというのではなく,その形で全体重がかかとにかかるように,体軸にそってしっかり踏み締めができており,全体重が足の裏で確実に支えられるように,自体軸がやや前傾して重心が踵よりもすこし前,土踏まずのあたりにあり,足指のつけ根あたりに踏みつけの力が適切に入っていること。そのため,自体軸のどの部位にも主体によって柔軟ながら強くて確実な力の入っている状態が,もっともよい姿勢と言ってよいでしょう。

と。姿勢とは,構えであり,

物理的および社会的な外界の環境での事象やできごとに対応する仕方ないし態度…,

とするなら,こういう自体軸,あるいは自己軸を意識することで,眼の見え方が変わってくるということなのだろう。確かに,ヨコになっていたり,くつろいでいては,パースペクティブは開かない。姿勢は,そのまま,この世界への対処の仕方,もっと言えば,

対峙の仕方,

なのだから。

参考文献;
成瀬悟策『姿勢のふしぎ』(講談社ブルーバックス)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:49| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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