見切る
ことの重大さも弁えず,なんとなく勢いで言ってしまって,周囲を震動させる,ということが,若いときにはある。
思い当ることが三つある。ひとつは,かつて勤め人時代,
人事に対する批判を公言した,
たぶん,直感的に理不尽だと思ったからだ。詳細はともかく,大阪へ責任者として行ったものが,半年足らずで更迭された。そのことを言ったのであるが,それがトップの虎の尾だったらしい。つけは,自分に何倍にもなって返ってきた。
それが若気の至り,というものなのかもしれない。僕は,勢いをわるいとは思わない。それを受け止めきれぬ度量のなさの方を,いまなら嘲笑う。わずかのことにビビる,器量の小さいのが,多い。
いまひとつは,まあ,色恋沙汰だから,口にするほどのことはないが,思ったことを口にすればいいというものではない。それで,周囲が巻き込まれ,大騒動になる,ということもある。
目の前のことしか見えていないから,そのことの及ぶ影響などまつたく視野に入っていない。
いまひとつは,父の死後,二十六の時,母たちを呼び寄せたとき,他の選択肢があったわけではないが,そのことの重みと,その結果について,ほとんど何も考えなかった。是非を言っても仕方がないが,モノが見えないという意味では,典型的だ。
本当は逆で,
事に敏にして,言に謹む,
でなくてはならないが,若さというより,性癖で,まず走り出す。しかし走り出すだけでなく,口も走る。それが勢いなのは,ある年齢までかもしれない。
歳とともに,分別臭くなって,もっともらしい口吻で,紛らすようになった。要は臆病になっただけだ。
弁えるは,
ワキ(分・別)+マフ(行う)
で,物事を弁別,どうすべきか心得る,という意味になる。それに,
つぐなう,弁償する,
の意味がついてくるところが面白い。まあ,思うに,そのことの代償の大きさを見極める目利きという意味を含んでいる,と考えていい。
見切る,
というのは,
最後まで見る,
見定める,
見きわめる,
という意味があるが,視界の広さと言いうより,
射程,
の長さといっていい。迂闊なことに,粗忽者には,
眼前,
しか見えない。それが単なる目くらましかもしれなくても,それに翻弄されてしまう。よく言えば,
直情,
だが,悪く言えば,
軽忽,
である。
人にして遠き慮りなければ,必ず近き憂いあり,
である。だから,見切るの意味が,
最後まで見届けて見きわめる,
ではなく,軽忽に,
見限る,
あるいは,
見切りをつけてしまう,
に近くなる。それは,
目を切る,
に近い。それは,見たつもり,なのである。
射程が,はなはだしく,短い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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