2014年06月28日

物語


武光誠『一冊でわかる古事記』を読む。

『古事記』の世界全体が,新書の解説本でわかるわけでもないが,

分かりやすい形で,読者に『古事記』の世界を紹介する,

意図で,著者の眼鏡を通した古事記世界像である。その意味で,かつて読んだきり読み直していない『古事記』を,他人の解説という目を通すと,どう見えてくるのかが,僕にとってのひとつの面白さだ。

古事記も物語であり(日本書紀が官製の物語なのに比し),太安万呂がまとめた,

全体で一つの流れをもつ物語である。

しかも,『古事記』は,

「帝記」「旧辞」と呼ばれる文献をもとにしてつくられた『古事記』の作製のときに,「帝記」にも「旧辞」にも,異なる内容を期したいくつもの異本があった。

それを一本にまとめるにあたって,

「旧辞」にもとづく物語の部分と,「帝記」を写した王家の系譜を帰す部分とを組み合わせてつくられている。

こう著者は解説する。もちろん,これも,著者の説に過ぎない。

物語というのは,一貫した世界を描く。そのために,その物語にそぐわない素材は,カットされる。歴史もまた物語とされるのは,著者が取捨選択して,世界を描き出すためだ。でなければ,ただ事実をつなげても,世界は見えてこない。

そこでは一貫した視界を造るために,外されるものがある,ということだ。と同時に推測されることは,一貫するために,不足を足す,ということがある。極端なことを言えば,その時代でないものを別の次代の事実から持ってきて,自分の描くジグソーパズルの全体像のためのピースにしてしまうということもある。

いまひとつ,物語は,書くということに伴い,言葉自体の連続性に拘束される,つまり,言葉にした瞬間,事実とは別に文章という文脈の拘束力に規制される。たとえば,同じ日の出でも,
朝日,
と書くのと,
日の出,
と書くのでは,次につなぐ言葉の規制力が異なる。つまり,言葉は,言葉によって,文脈を強制される。従って,否応なく,事実からは隔てられる。

そう思って,古事記を見ると,結構面白いところが多々ある。

たとえば,著者はこう言う。

古代人は「言葉には物事を動かす力がある」とする,言霊信仰をもっていた。そのために,個々の神の名はそれぞれの役割を示す重要な名称と考えられていた。天之御中主神の名前をもつ神さまは,世界の中心で万事をとりしきる能力をもつ。高御産巣日神と神産巣日神は,人間や動物が楽しい生活を送れるように見守り,かれらを繁殖させる力をもつ。

しかし,逆の言い方もできる。世界の万物をとりしきる神がいるとして,それに名をつけた瞬間,世界は,その神の御業に見えてくる,それは今日もそうである。われわれは,言葉を持つ(あるいは名づける)瞬間,そのように世界が見える。それを言霊と呼ぶなら,いまも言霊はある。

あるいは,建御名方神が建御雷之男神に打ち負かされ,諏訪湖まで逃げて降伏したという逸話について,

建御名方神の名前は,『古事記』の大国主神関連系譜にはみえない。諏訪側にも,大国主神を建御名方神の父神として重んじた様子はない。
こういったことからみて,建御名方神の話は後に加えられた可能性が高い。

と言う。その背景にあるのは,

六,七世紀に朝廷は,神話の整備や祭祀の統制に力を入れた。これによって,全国の神々を皇祖天照大御神を頂点とした秩序のなかに組み込もうとした…。

という政治的事情である。これまた物語に丸める動機になる。

あるいは,五世紀,南朝の宋朝に,倭の五王,讃,珍,済,興,武が使者を派遣したと,史書にある。それに合わせて,武が,

雄略天皇の実名,「ワカタケ」の「タケ」を漢字にしたもの,

として,雄略天皇に比定されるところから,残りを,

興を,安康天皇,
済を,允恭天皇,
珍を,反正天皇,
讃を,履中天皇もしくは仁徳天皇

にあてようとする。しかし,安康天皇,反正天皇は,中国史書にあわせて,後に系譜に加えられたのではないか,と見られる,と著者は言う。

つまり,中国側にある事実に合わせて,空白を補ったのである。たとえば,讃を,仁徳天皇とする説は,

仁徳天皇の実名の「オオササギ」の「ササ」を「讃」と表記したとする,

のである。もうここまで行くと,歴史も,確かに(創作)物語でしかない。

さらに,著者は,

五世紀はじめに本拠地を河内に遷した王家は,六世紀後半の570年代に最盛期をむかえたと考えられる。この時期に,日本最大の古墳である仁徳天皇陵古墳が築かれた…。
古墳の年代から見て,仁徳天皇陵古墳が五世紀はじめの仁徳天皇を葬ったものでないことは明らかである。(中略)仁徳天皇陵古墳は,有力な大王であった雄略天皇のためにつくられたものとみても誤りではあるまい。仁徳天皇陵ができたあとの河内の古墳は,次第に縮小していった。

さらに,こう付け加える

朝廷で漢字が用いられなかった時代には,「正確な系図を伝える」という発想は見られなかった。(中略)渡来人の知識層が朝廷での活躍が始まる五世紀なかばにようやく,王家の系図づくりがはじめられた。その頃の系図は,次のようなものではなかったかと思われる。

(いわれびこ)……みまきいりひこ(崇神天皇)―― いくめいりひこ(垂仁天皇)――ほむたわけ(いささわけ,応神天皇)――大王の祖父――大王の父――大王
このなかのほむたわけ(いささわけ)は,「七支刀銘文」にみえる倭王旨(ささ)に対応する実在が確実な大王である。……次の三人が五世紀実在した大王である可能性が高い。
おおさざき(仁徳天皇)――わくご(允恭天皇)――わかたけ(雄略天皇)
これに名前が不明な大王を二人加えたものが,倭の五王であ。「おしは」が,倭の五王の一人であった可能性もある。

不足をつないで,一貫性を保たなければ,ひとつの自己完結した世界はまとまらない。歴史も,また,「史記」を含めて,物語であるのだろう。

参考文献;
武光誠『一冊でわかる古事記』(平凡社新書)



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posted by Toshi at 05:30| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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