2014年07月01日

沈黙


沈黙については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/393712202.html

を含め,何度か書いた。たぶん,

沈黙,

寡黙,

緘黙,

という言葉が好きなのだが,ついつい,いつも,

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな

という,壺井繁治の詩を思い浮かべてしまうが,しかしこれは,黙っていると言いつつ,妙に,というかやたらと饒舌なことに気づく。言い訳がましい。

石原吉郎にこんな一節がある。

詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば,沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの,もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が,ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます。

例えば,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

のほうが,寡黙だ。ここには何も語ろうとしない姿勢がある。

黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです,

と吉本隆明が言っていたが,それは,沈思黙考だ。自己対話であって,それ自体,すでに言葉になっていないが,喋っている。沈黙は,それとはわずかに違う。

単純な意味での外側への働きかけという姿勢は,私にはないかもしれません。ただ,最終的に沈黙することはできない。なにをいってもだめだけれど,最終的に沈黙することはできないというぎりぎりの所で,私は詩を書いてきたと思うし,これからも書いていくしかないとい思うわけです。

とも石原は言っているので,ヴィトゲンシュタインの言う,

およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない,

のぎりぎりの瀬戸際ということになる。そこには,心の中で考えていたことが,思わず声に漏れる,ということとも違う。

石原は,こうも言う。

ひとつの情念が,いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく,実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき,私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。

例えば,

いわれなく座に
耐えることではない
非礼のひとすじがあれば
礼を絶って
膝を立てることだ
膝は そのためにある
そろえた指先も
そのためにある(「控え」)

沈黙は,お喋りや言葉の対語ではない。対ではない。バランスは,はるかに沈黙が重い。あるいは贅言百万と匹敵する。

もちろん,沈黙は,ただ

しゃべらないこと

でもないし,よくセラピーやコーチングで言うような,

沈黙もまた一つのノンバーバルな言語,

というのでもない。沈黙は,ただ沈黙なのだ。黙っているのとは違うのだ。。

言葉にならないありようそのものを,何とか言葉にしょうとする,その突き抜けるように結晶していく,結晶化の臨界点のようなものだ。それは,思考という理性的なものとも,感情や感覚ともちょっと違うのだろう。

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ(「非礼」)

例は悪いが,

たとえば,種田山頭火の,

いつもつながれてほえるほかない犬です



何が何やらみんな咲いてゐる

は自由な一節のように見えて,実は完結している。俳句という一つの世界像の中で,完結している。俳句というものがなければ,ただの未完のつぶやきでしかなくても,俳句として語りだされている以上,完結している。完結した世界が目に見えてくる。完結した短句の中に,凄い饒舌がある。言葉があふれ出る。

しかし,石原にはそれがない。漏れ出たものは,一節でしかない。

そう。沈黙とは,ありようなのだ。言葉と対等のレベルではない。

おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(「呼吸」)

思想のやすらぎである寂寥,

としてのありようが見える,気がする。

沈黙は,黙っていることではなく,言葉による表現を拒否したありようなのかもしれない。でなくば,言葉による表現の出来ない限界を示している。だからそこから漏れ出る言葉は,ありようそのものの滴としか言いようはない,のではないか。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 沈黙 | 更新情報をチェックする
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