発心
発心とは,
菩提心を起こすこと,
とある。そこから,あることをしようと,思い立つこと,
発意
とある。
発心などと殊勝な気を起こしたこともないし,何かそんな大げさな決意をした覚えもない。確かに,何かを心願することはあるが,さほどの重みがない。
生来の怠け者だから,なかなか,思い立って,などという健気で殊勝な心根の持ち合わせがないせいかもしれない。
なりゆきの中に,流されていることが多い。
たまたま,
行掛り,
成り行き,
でそういう羽目に陥ることが多い。だから,道草のつもりが,そこが本道になってしまう。だからといって,そのことを恨む気はない。そこで状況を引き受け切れれば,おのが器量,それを受けきれず敗北の憂き目にあっても,やはりおのが器量のなせるわざに過ぎない。
状況を創り出すというより,状況に巻き込まれて,
否応なく,それを乗り切ることを迫られる,ということが多い。そんなわけだから,時代にさからう羽目になることも多々ある。
そのせいか,大体が,大袈裟な物言いをしたがらない。自己防衛というか,あらかじめ,言い訳を立てておくというところがないわけではないが,それ以上に,そういうことを為遂げる人間とは,自分をあまり信じていなかったし,信じていないせいに違いない。
為遂げるもなにも,それを為遂げても,一文の得どころか,それをクリアしなくては生き切れない,そんなシチュエーションだから,当たり前と言えば当たり前だ。
種田山頭火の
春が来た水音の行けるところまで
という感じ,いや,というより,
分け入つても分け入つても青い山
というほうが近い,という感じなのである。たぶん,
志す
ものがあるから,
思い立つ
のではないか。たまたま巻き込まれたのでは,志すも,発心も,あったものではない。
発心
という以上,何かそこに,スタートラインのような,明確に区切りがあるに違いない。振り返れば,あそこだった,あの時だった,というような。
しかし,少なくとも,僕の場合,
気づくと始めざるを得ない,
というのに近い。周りが迫るのである。しかし別の見方をするなら,
選んで,そういう場に立っている,
ということが言えなくもない。なぜなら,拒んでもいいし,逃げても,避けてもいいのに,そうしないで,
受けている,
からだ。場が,状況が,迫るものを,かっこよく言えば,
引き受ける,
あるいは引き受けざるを得ないと思い込む,のが正しい。避けるのは,できない,と自分に思い込ませている。あるいは,言い聞かせている,のかもしれない。
で,それに立ち向かうことになる。
いつもいつもではないが,そういう矢面に立つことを,選んでいる。言い方を変えれば,発心はしていなくても,そのシチュエーションになったら,
引き受ける,
ということを,知らぬ間に決めている,というのかもしれない。しかし,たまには,
自分でシチュエーションを創り出す,
ということをしてみたい…,が,まあ,おのが性分には似合わないけれど。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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