2014年07月07日
ことば
ことばというのは,『大言海』には,
口にあらわるる意なるべし。ことのは,とも,口のは,ともいう
とある。しかし,語源的には,三説あるらしい。
①コト(言)+ハ(葉)で,言の葉が語源とする,紀貫之の『古今集』の序で述べている説
②コト(言・事未分化)+葉(茂らせる)が語源。事柄を口に出し茂らせる意
③コト(言・事)+ハ(端)が語源で,事柄の一端を口に出すのが言葉,という説
しかし,「ことば」を,漢和辞典でひくと,
舌
言
語
詞
辭(辞)
と出る。ことばを,いろいろな漢字に当てたらしいのである。そのつど,どの字に当てるかで,そこに見えて(見ようとして)いた世界が違うはずである。
確かに,中国語では,それぞれ意味に差がある。
舌は,口に在り,言う所以,とあるので,それとの関連だろう。弁舌,饒舌,舌戦など。
言は,辛(切れ目をつける刃物)+口で,口をふさいでもぐもぐいうことを,音・諳といい,はっきりかどめをつけて発音することを言と言う。彦(げん)は,かどめのついた顔,岸(がん)はかどだったきし,で同系。
語は,交差して話し合うこと,
詞は,言+司(つなぐ)で,次々とつないで一連の文句を作る小さい単位,単語や単語のつながりを言う。嗣(後を継ぐ小さい子)と同系。
辭(辞)は,乱れた糸をさばくさま+辛(罪人に入れ墨をする刃物)の意で,法廷で罪を論じて,乱れを捌く言葉を指す。詞と同系。
合わせて「言う」との使い分けで言うと,
言う・謂うは,ほぼ同じで,言うは,口に思うところを口に述べる。謂う,人に対して言う,あるいはその人を評する時も,これを使う。
曰う・云うは,ほぼ同じ。ただ,云うは,意が軽く,曰うは,意が重い。
とある。
言葉は,それを使うことで見える世界が違う,あるいはそれによって(相手に)見させようとする世界があるのだとしたら,
こと(言)
ですんでいたものに,あえて,
ことば(言葉)
と,「は」をつけるには意味があったのではないか,という気がしてならない。
端
が端緒とするならそこに謙譲というか,謙遜が込められている,というのが正しいかもしれない。
かつては,言霊というほど,事と言とは一体化していた。言は事を引きずっていた。いわゆる言霊とは,一般的に言われるように,
人から出た言葉が現実に何らかの影響を及ぼす,
ということだけではないようである。そこにあるのは,畏れである。
神意
があって,初めて
言葉がその霊力を発揮する,
神意の込められた言が,霊力を持つのである。有象無象の言ではない。そこにあるのは,神への畏れである。そういう類の「言」であったとすると,それとは別の言は,
端くれ
である。そういう意味ではないか。
特に,事とのつながりの強い象形文字の漢字ではなく,かな,を指していると想像するのは,無理筋ではないだろう。
しかし紀貫之が,『古今集』の仮名序で,
やまとうたは,人の心を種として,万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人,ことわざ繁きものなれば,心に思ふ事を,見るもの聞くものにつけて,言ひ出せるなり 花に鳴く鶯,水に住む蛙の声を聞けば,生きとし生きるもの,いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし,目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ,男女のなかをもやはらげ,猛き武士の心をも慰むるは,歌なり
と書くとき,そこには,ひそかな矜持がある。神の霊力からも「事」からも解放された,
(ひら)かな
という文字の,たかが,
端くれ
の言の葉への自信である。
それは,やまとことばが,自分を表現できる文字を持ったことへの高らかな宣言にも見える。
もっとも,この序は,『詩経』の大序の,
天地を動かし,鬼神を感ぜしむるは,詩より近きは莫し,
からのパクリらしいのだが,まさに,そこにこそ,やまとことばが獲得した表現世界がある,というべきである。
言(=事)
からの離脱であり,
借り物の万葉仮名
からの自立でもある。
それは,漢字のもつ,象形文字ならではの,重い意味と事のくびきからの自由でもある。そこではじめて,やまとことばの表現の世界が,広がったのである。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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