2014年07月09日
嫉妬
嫉妬については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163434.html
で触れたことがある。
僕は,嫉妬というのは,
その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する,
悔しさといっていい。
しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。
自分は,その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。
羨むというのは,穏やかだが,それは,距離があるからだ。遠い向こうを見ているからだ。その距離が感情を生々しくしない。生臭くしない。
嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。
もう少し広げると,
そのときそこにはいられない,
という,切歯扼腕,の思いである。それは,歳とともに募る。たとえば,十年後,二十年後と考えたとき,それは切実に,切なさとして,感じる不在感である。自分が,
そのとき,
その場,
その時代,
その状況,
にはいない,いることができないと分かっているからなお募る,一種承服しがたい焦燥感に近い。
嫉妬について,専門的には,
嫉妬とは,自分にとって重要な人,ものが他者に奪われる不安,恐怖により引き起こされる感情。怒り,悲しみ,恐れ,苦痛の感情が含まれる。英語の jealousy は嫉妬と訳され、envy は妬みと訳される。
この二つはは心理学用語としては区別される。妬みは,他者が持っている属性や関係を自らも所有したいという欲求を指し,関係の喪失に対する恐れの感情がない点で嫉妬と異なる。
という,と心理学辞典にはある。
とすると,羨望か,いや。そうではない。
羨望は,嫉妬と違い,独占ではなく,称賛が交じる,とある。
専門家に,素人が逆らうのも何かと思うが,どうもそれは専門家の固定観念(機能的固着ともいう)ではないか,と思う。
二者関係にこだわり過ぎている。
嫉妬という感情(?)は,もう少し,自分のありように深く根ざしている気がしてならない。
自分が,そこにいられない,
その人との関係,そのものとの関係,そのときとの関係,その場との関係,
等々,必ずしも人とは限らない。
その時代に居合わせなかったこと,
そのときに居合わせられなかったこと,
への,(その場にいたいからこその)その場にいたら,という強い思いからの口惜しさだってある。
いま僕の中にあるのは,その思いだ。
その場にいたらどうかというと,たんなる目撃者になれない,というだけのことかもしれない。
ずいぶん昔,学生時代,その思いがあった。
その場にいたい,
という焦燥感で,そこへ駆けつけたことがあった。それは,同時代であり,そのとき,その場にいられる,という幸運のせいでもある。
そう,そういう僥倖は,同時代にいなければ,得難いのだ。
同時代に生きていられない,
という悔しさかもしれない。誤解してほしくないが,オリンピックなどではない。僕は,東京オリンピックは,二度目の幻(のオリンピック)に終わるのではないか,という強い危惧を懐いている。
参考文献;
中島義明他『心理学辞典』(有斐閣)等々。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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