2014年07月10日
喩え
たとえば,熱い思いとか,思いの深さというときの,
熱いとか深いは,「思い」というものを熱せられた何か,あるいは深い淵になぞらえなければ,表現できない。しかし思いはカタチのあるモノではない。まあ,
喩え,
あるいは
比喩
なのだが,何気なく使うこれは,何なのだろう,とあらためて整理し直してみたくなった。比喩については,アナロジーを中心において考えると分かりやすい。
アナロジー(Analogy)は,analogueつまり,類似物から来ているはずだから,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/398240083.html
で触れたように,
当該の何かを理解するのに,それと似た(あるいはそれと関係ありそうな)別の何かを媒介にして,
~として見る
ことである。言ってみるとパターン認識である。昔から,
問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す
と言われているのと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものから,
異質な分野との対比を通して,
推測することといっていい。
W・J・J・ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,
・擬人的類比(personal analogy)
・直接的類比(direct analogy)
・象徴的類比(symbolic analogy)
・空想的類比(fantasy analogy)
の4つ挙げている。
直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするもの
であり,
擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法
であり,
象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとする
ものであり,
空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするもの
である。
いずれも,やろうとしていることは,比較する両者に,
共通点
を見つけようとすることに尽きる。どういう共通項を見つけるかが,鍵になるが,僕は,両者に,
関係性
と
類似性
をどう見つけるか,に尽きるのではないか,と仮説をたてている。。
前にも触れたことがあるが,それを鍵に分類していくとすると,
・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」
に整理できるのではないか。
前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだす
のに対して,
後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。
詳細は,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view24.htm
に譲るとして,メタファーとの関係に踏み込めば,たとえば,類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。
いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,
一種の~,
~を例に取れば,
~というように,
といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。
1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)
である。
ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。
アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもあるからである。
むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。
ただ,すくなくとも,比喩が使えるには,それに見立てたものとの間のアナロジーが認知できていなくてはならない。
モデルについて挙げれば,詳しくは省くが,
・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル
とあるが,比喩は,
ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。
これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,
直喩(simile),
隠喩(metaphor),
換喩(metonymy),
提喩(synocdoche)
といった種類があるが,類似性と関係性に対応させるなら,
直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,
換喩,提喩が《関係性》の言語表現<
となる。
直喩
は,直接的に類似性を表現する。多くは,「~のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「~そっくり」「たとえば」「~似ている」「~と同じ」「~と違わない」「~そのもの」という言葉を伴う。
従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。
とはいえ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくては,いい喩えとは言えない気がする。。
隠喩
も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。
したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,
①AとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)
②「心臓」と「ポンプ」を比較するとき,両者を包括する枠組のなかにある
③一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。
この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(~として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。
それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点(メタ・ポジション)をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントにもなる。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。
換喩と提喩
は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性"の表現)という共通した性格をもっている。
両者の表現する《関係性》は,
換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)
であり,
提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)
となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。
換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,
・容器-中身 たとえば,銚子で酒,鍋で鍋物,丼で丼物
・材料-製品 アルコールで酒
・目的-手段 赤ヘルで広島カープ
・主体-付属物 王冠で王様
・作者-作品 ピカソでピカソの絵
・メーカー-製品 味の素でAJINOMOTO
・産地-産物 灘で清酒
・体の部分-感情 頭にくるで怒り
等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。
一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,
・部分と全体 手が足りないで人手
・種と類 太閤で秀吉,小町で美人
・集団-成員 セロテープでセロハンテープ
等々がある。ただ注意すべきは,全体・部分といったとき,
木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……
では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。
この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。
対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。
こうした比喩の構造をまとめてみれば,
[類似性] [関係性] [推論]
《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》
となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。
こう考えると,
アナロジー・モデル・比喩
は別のものではないこの三者の,補完関係は次のように整理できるだろう。
[類似性]→[関係性]→[論理性]
直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→類推→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル(モデル)
「~として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,
“意味的仮託"あるいは“意味の置き換え"であり,“価値的仮託"あるいは“価値の置き換え”
である。モデル的に言えば,
“イメージ的仮託"あるいは“イメージの置き換え”
であり,
“形態的(立体的)仮託"あるいは“形態の置き換え”
である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や飛躍"が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。
として,冒頭の話に戻すと,
思いが深い,
というのは,いい喩えなのだろうか。そんなことは勝手なことで,深きかろうと浅かろうと,その思いをかけられる側にとっては,何の関係もない。思いの大きさを言うのだとしたら,いい喩えではない。惰性の表現であって,異質さを対比していないから。
参考文献;
W・J・J・ゴードン『シネクティクス』(ラティス社)
佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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