2014年07月11日
編集
落語については,何度か書いたことがある。たとえば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395330135.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163570.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163543.html
等々。
少し前,落語をきく機会があった。
演目は,「目薬」「祇園祭」「夢見の八兵衛」。
どこかで,同じ噺を聴いていても,枕と入り方でまったく様相が変わる。
落語は時間だとつくづく思った。というか,語りは,あるいは言葉は,時間なのだ。流れて,後へは戻れない。そこには,
シーケンシャルだという意味
と,
一瞬一瞬の中に生きている,
という意味と二つがある。
実は,その二つは,噺の帰趨を握るのではないか,と感じた。
なぜなら,噺は,噺家の演出というか,編集次第で,まったく違ってくるからだ。それで同じ噺でも流れ方が変わり,印象が変わる。さらに,ズームアップする部分次第で,その一瞬の効果が,まったく変わるのではないか。
噺家は演出家,という話は,前にも書いたが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html
それは,
同じ噺のどこをどうつなぐか,
という場面構成のつなぎ方,つまりは時間の流れのつなぎ方と,
同じ噺のどこをフォーカスするか,
というカメラワーク,つまりどうパンするか,どうズームアップするかという話の,あるいは場面の,あるいは人の,あるいはやり取りの,どこをピックアップして,強調するか,
に,演出家としての噺家の腕の見せ所なのではあるまいか。もちろん出演者は,ご自身である。
それは,図と地の問題でもある。どこかに焦点を当てれば,どこかが,霞む。
その抽出の仕方,つなぎ方は,例えが古いが,
映画フィルムの編集,
とほぼ同じなのだと思う。ということは,そのつなぎ方で,同じ噺も,大袈裟に言うと,人情話ではなく,別のものに変わるということだってある。怪談が単なる色恋話に変わったっておかしくないのだ,と思う。
要は,演出とは,
噺の解釈
である。そこに,噺家の腕がある。どう料理するかで,噺の焦点が動く。場合によっては,噺家は自分の得意の分野に持ち込もうとするだろう。
それも含めて演出であり,
編集である。
編集というのは,何度も触れて恐縮だが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる(フィルムの例だが)。
「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。
たとえば,
男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる……
みたいな感じである。
実は大事なのは,編集によって,ただ流れというか,噺のプロット(時間軸)が変わるだけではない。
つなぎ替えには,
短縮カット,
焦点の変更,
も含む。それは,地と図を入れ替えるということも含む。それは,極端に言えば,
主客の変更
も含むのではないか,と憶測をする。それが噺家が噺を演出する意味だと思うのだが,どんなものだろう。一度噺家の方に確かめてみたい。
参考文献;
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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