2014年07月16日
気
宇佐美文理『中国絵画入門』をよむ。
よく考えると,例えば,山水画,水墨画,というように,結構中国絵画の影響を受けているのに, 中国絵画について,ほとんど知らないことに気づく。
著者は,
気と形を主題にした中国絵画史
というイメージで本書を書いたと説明する。そして,
中国絵画について何かを知りたいと思われた方,そこで知りたいと思うことはなんなのか。それを知ることがなければ読んだ意味がないと思うことは何なのか。
それをまず書くという。
中国絵画の流れを何か一本スジを通して記述できないか,
という問題意識で俎上に上ったのが,
気
である。では,気とは,何か。
最初は,孫悟空の觔斗雲のような形
で表現されていた(後漢時代の石堂の祠堂のレリーフにある),霊妙な気を発する存在としての西王母の肩から湧くように表現されていた気が,
逆境にもめげず高潔を保つ精神性を古木と竹で表現した(金の王庭筠の「幽竹枯槎図」の),
われわれが精神や心と呼んでいるものも,
気の働きと考えるようになり,そういう
画家の精神性が表現されたということは,画家のもっている気が表現された,あるいは形象化された,
という気まで,いずれも,気を表現したと見なす。
簡単に言えば,中国絵画における気の表現は,気を直接形象化した表現から,実物の形象を使いつつ気を表現するという
ところまで変換していく。そこから,
どのようにすれば気そのものを形象化することなく,気を表現できるか,という問題が,常に中国絵画の中心課題として存在していた,
と著者は見る。この転換点になったのは,(「帝王図鑑」の)
気韻生動
と言われる,
(皇帝を描いた場合)皇帝が,皇帝たる風格(精神性も含めて)を感じさせるものでなければならない。それが人物画の肝要な点だと考えられた
ところだという。つまり,
絵画にとって重要なことは,形を写し取ることではなく,形を超えたもの,人物画では気韻あるいは人物の精神性であると考えたのである。
それは,たとえば,静物では,(李迪「紅白芙蓉図」)の,
芙蓉の気,それは,読者の方がこの絵を見て感じる,その匂い立つ美しさそのものが芙蓉の気なのである。
と著者は言う。
ともかくこの絵から感じとられたこと,それがまさにこの絵のもっている気にほかならない,
ということが重要なのだと言う。
その気には,いまひとつ,
筆墨の気
がある。いわゆる,
筆気
である。これは,
筆意ともよばれ,線の流れに作者の心の流れを読み取ろうという発想である
という。気の表現は,
直截的形象化,描かれた対象のもつ気の表現,作者自身の気の表現,線のもつ気,墨の気など,
様々な形を使ってなされてきたが,この,
形をもたない気が形をとって現れること
を,
気象,
と呼ぶ。これが,
中国芸術全般を支配する思想
といっていい,と著者は断言する。気は,
万事万物を構成する「もと」
であり,物質はもとより,
我々の「精神」も気のはたらき
であり,陰陽の気の交代が昼と夜であり,
世界のすべては気を原理として生成変化し,……気でできた世界は形をめざして動いている。簡単に言うと,世界とは造形力そのものなのだ。
しかし,と著者は言う。気が画家自身の気の表現であるとしても,
画家がもっている気がそのまま画面の形象になるという気の思想だけですべては片づかない。いかめしい顔をしていても心は優しいというのはきわよめてよくある話である。
で,著者は,
外見と内面が一致しないとする発想を,「箱モデル」と呼ぶ。箱の外見からは箱の中身が分からないからである。対して,気象の発想によるものを「角砂糖モデル」と呼ぶ。角砂糖全体は中心部分も含めてその性質は同じである…から,外見と中身は一致し,中身は外見から推知できるのである。
後者のそれが,
作者の持っている気がそのまま作品に現れるもので,それは生得のものだ,
という考え方に通じ,人格主義につながる。
中国の芸術は,しばしば作品ではなく,作者によって価値を判断する。…絵が上手いとか下手とかという問題をわきにおいて,絵を描いた人物自体の価値を基準としようとする,
考えへとつながり,さらに,蘇東坡の,
形が似ているかどうかで絵を論じてはいけない
につながる。形をこえたものを求める形象無視の頂点に来たのは,
文人画
である。
絵画も文人が描けば芸術だが,画工が描けばそうではない,
というように。その頂点に,
牧谿
がくる。牧谿は光の画家と言われるが,それは,レンブラントの,光と影とは全く違う。
牧谿のひかりは,…「気そのものが輝いている」光である。光が三次元空間に充満している。我々の言葉で言う「空気」が光っているのである。それが照らされた光ではない,
から影がない。ここにあるのは,
透徹した精神性
である。それは,
絵画がまるで言葉によって語りかけ,それに絵を見ている人間がこたえているようなもの,
である,と著者は言う。
書もそうだが,作者の精神性というものが,最後に,作品を凌駕する。
個々の作品ではない,
らしいのである。
数千年を,一冊で読み切るのは無理には違いないが,読み終えて,そこかしこで,老荘,孔孟の気配を感じた気がしたのは,錯覚だろうか。
参考文献;
宇佐美文理『中国絵画入門』(岩波新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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