2014年07月21日

さようなら


語源的には,

左様ならば(そうであるならば)

だとされる。つまり,

そうであるならば,お別れしましょう

の古形である,と。あんまり,学者の説というものにいまいち信がおけない。へそ曲がりのせいばかりではない。何度も書いているが,

さようならなくてはならぬ故,お別れします,

という一種無常観のニュアンスがある気がしてならない。だから,

そういうわけだから,

というよりは,

そういう次第なので,

そういう仕儀なので,

という文脈というか,状況に強いられて,と言うニュアンスが強く漂っている。だから,田中英光は,他の言葉に比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。確かに,調べると(自信はないが),

再見

Au revoir

Auf wiedersehen

は,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)

Goodbye(God be with you の古形の略)

Tschuss(adiosが語源)

神とともに,というものとに,二分され,あまり,哀しみのニュアンスが出てくるものはないようだ。

アンニョンヒ カセヨ

は,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない。

さようならば,お別れします,

はやはりちょっと特殊と言えるだろう。

しかし考えようによっては,二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いようなきがする。

しかし,われわれは,自分がそうしたいときでも,何か別の理由があるような言い回しをすることが多い。そう見れば,

そういう次第なので,

という前ふりは,なんとなく,本心を糊塗する色がなくもない。

ご免なさい

より,

すいません,

と逃げるように,

別れたい,

より,

別れなくてはなりません,

という言い方を好むのではあるまいか。

よんどころない事情で,

とか,

諸般の事情で,

という言い方をして,主意を薄める。それは,責任をあいまいにする,という色合いがある。

言葉を濁す,

誰が,という主語をごまかす,

等々,われわれ自身が,ごまかしている精神構造そのものに行き着く気がするのは,おおげさだろうか。

その意味で,

さようなら,

には,日本語特有の曖昧に,墨色に流していくニュアンスがなくはない。別れに当たってすら,そんな糊塗がいるのか,と思わないでもない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田中英光『さようなら』(現代社)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:56| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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