2014年07月23日

劣化


佐伯啓思『正義の偽装』を読む。

帯には,

稀代の社会思想家

とある。しかし,読んで,異和感のみが残った。福田恆存はまだしも,件の長谷川三千子を麗々しく引用するあたり,そのレベルの人かと,ひどく幻滅した。

著者は,本書について,

「時々の時事的な出来事や論点をとりあげつつ,それをできるだけ掘り下げて,使嗾的に論じるというのが連載の趣旨なのです。」

という。そのうえで,

「私には今日の日本の政治の動揺は,『民主主義』や『国民主権』や『個人の自由』なる言葉を差したる吟味もなく『正義』と祭り上げ,この『正義』の観点からもっぱら『改革』が唱えられた点に在ると思われます。われわれは,本当に信じてもいないことを『正義』として『偽装』してきたのではないでしょうか。」

と書く。この文章に,詐術がある。自分は,

「この世の中に対する私の態度はかなりシニカルなものです。」

といって,まず部外者に置く。そうすることで,上記の「偽装」については,責任を逃れている。そして,

さしたる吟味もなく,

「正義」と祭り上げ

もっぱら「改革」が唱えられた

本当に信じてもいないことを「正義」と「偽装」

しているのは,著者ではない,「愚かな日本人」ということになる。著者の論拠は,保守だから,主として,

サヨク

野党

がその批判の対象になる。しかし,かくおっしゃる世の中で,ご自分はのうのうと大学教授を享受している,この社会の当事者である点を,置き去りにしている。かつて,吉本隆明が,丸山眞男の当事者意識を痛烈に批判していたのをふと思い出す。当然,僕は,この著者の言うところの,

サヨク

に該当するらしいのだが,しかしいまどき左翼だの右翼だのというふるい分けというか,レッテル張りに意味があるのだろうか。せいぜい石破氏のデモを「テロ」と名付けたり,安倍氏が批判者を「左翼」というラベル貼りする以上の実態はないと思うが,未だラベル貼りすることで,自分をその埒外に置きたい人がいるらしい。けれども,自分を埒外におこうと,どの立場に立とうと,時事に対して,批判することはもちろん自由だ。しかし,評論家であることは許されない。この日本において,自分だけ埒外にいることはできない。自分または自分の家族も巻き込むことを意識しない当事者意識の欠けた意見は,基本,聴くに値しない。

しかし,本書へのいらだちは,それだけではない(当事者意識のないどころか,高みから見下ろしているのは,この手の論客のお得意技なので,そのことはさて置いても)。

たとえば,

「『自由』や『民主』『富の獲得』『平和主義』といった戦後の『公式的な価値』は,実は,一皮むけば,すべて自己利益の全面肯定になっている」

と書く。「公式的な価値」って,誰にとって,誰が,と言う茶々は入れない。そういう言い回しで,皮肉たっぷりに言うのが,ご自分の存在基盤になっているらしいので,言ったところで,痛痒を感じまい。問題は,これは,著者の仮定にすぎないということだ。そう著者が仮に仮説として言った,ということだ。ところがである。つづいて,

「すると人はいうでしょう。人間とはそういうものだ。どうして利己心をもって悪いのか。そうです。別に悪くありません。誰もが自分の生命や生活を第一に考え,自己利益を目指し,富が欲しい。これは当然と言えば当然です。しかし,戦後の『公式的な価値』は,この本質的にさもしい自己利益,利己心を『正しいもの』として正義にしてしまったのです。それに『自由』や『民主』や『経済成長』や『平和主義』という『錦の御旗』を与え,『政治的正しさ』を偽装してしまったのです。」

こういうのをマッチポンプと言う。ご自分で問い,それに「さもしい」という問いにはなかった価値判断までも加え,「(自分ではないアホな国民が)正しいものにしてしまった」と言っている。この論旨は,詐欺である。

そもそも仮定は,著者がした。この仮定を受け入れなければ,たとえば,「自己利益」という前提を外せば,別の結論になる。こういうのを,前提に結論を入れている詐術という。

決められない政治,責任を取らない云々と批判のある風潮に対して,こう言う。

「『決断をする』にせよ,『責任をとる』にせよ,これは指導者に求められる責務なのです。そして,『決断』も『責任』も,それなりの力量や先見性をもった『主体』でなければできません。『決断』はいうまでもなくまったく未知で不確定な未来へ向けてひとつの事柄を選び取ることで,そこには先見性と強い意志がなければなりませんし,『責任』の方も,選択の結果がいかなる事態を引き起こすかというある程度の因果関係の推論がなければ意味を持ちません。」

ここまでは,まあ,いい。しかし,ここからがお得意の論旨の展開である。

「こうしたことを予見できるのは,人並み外れた能力なのです。ということは,われわれは,人並み外れた力量を指導者に求めているのです。(中略)ところが他方で,われわれの理解する『民主主義』とは,『民意を反映する政治』であり,われわれの常日頃の思いや感情や不満が正字に反映されるべきだ,という。指導者とは,われわれのいうことをよく聞き,われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者なのです。端的に言えば,民主主義のもとでの政治家とは,『庶民感覚』をもった者で,できる限り我々に近い人であるべきなのです。
こうなると矛盾は覆い隠すべくもないでしよう。われわれは,一方で,指導者に対してわれわれにはない卓越性とたぐいまれな力量を求め,他方では,指導者はわれわれとチョボチョボであるべきだといっているのです。」

こうやって,単純化して,あえて,論点を明確にするというやり方はある。しかし,この矛盾は,著者が立てた仮説に基づく。その仮説が違っていれば,話はかみ合わない。

たとえば,「無責任」で問題にしていることは,こういう抽象的なことではない。もっと具体的な,あのこと,このことである。ひとつひとつの具体的なことについて,責任を取っていない,と言っているのである。

最近の例で言えば,原子力規制委員会の田中委員長は,合格を認定したが,

「再稼働の判断には関与しない。安全だとは私は申し上げません」

と言い,菅官房長官は,

「規制委が安全性をチェック。その判断にゆだねる」

と言い,岩切薩摩川内市長は,

「国が責任を持って再稼働を判断すべき」

と言う。そして,

「もし事故が起きたら、その時の責任は?」

と質問されて,岩切薩摩川内市長は,

「これは国策だから、国が責任を取るべきだと思う」

と言う。責任とは,たとえば,この一連のなすり合いのような,具体的な言動,事案について言っている。

あるいは,メルトダウンしたフクイチは,いまだコントロールできず,全太平洋を汚染つつあるのに,

コントロールロー出来ている,

という平然とウソを言い,ウソがまことの如く頬かむりしているという,個々の具体的な言動を指している。それを一般論に置き換えて,それは,

ないものねだりだ,

ということで,無責任を容認しようとする,この論旨こそが無責任な,論旨のすりかえである。たとえば,政治も,国家→県→市町村という政治レベルのクラスを意識的にぼかし,一般論として,ひとしなみに捉えて,政治家は,

われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者

と言い替えてしまう。まさに,巧妙かつ卑劣である。この手の論旨に満ち溢れていて,もういちいち指摘するのも辟易する。

G・ライルは,知性は,

Knowing that
だけではなく,
Knowing how

がなければだめだという。著者は,シニカルに逃げて,

Knowing how

を一切示さない。自分なりにどうするかを示さなければ,所詮知識のひけらかしか,批判への評論でしかない。自分は安全なところで,時代を享受しながら,時代をシニカルに皮肉る。知性的なふりをした,巧妙なプロパガンダ以外の何ものでもない,

社会思想

の「偽装」である。しかし,ご自分が当事者意識を持とうが持つまいが,ご自分の子息,縁者の子息は巻き込まれる。あるいは,黒澤明がこずるく兵役を免れたように,この手の人には,抜け道があるのかもしれない。でなければ,ご自分を対岸においてものを言う神経が理解不能だ。

たしか,ミルトン・エリクソンをベースにする,NLP(神経言語学的プログラミング Neuro-Linguistic Programming)には,ミルトンモデル(その反対はメタ・モデル)というのがあり,物事をあいまいに糊塗する言葉遣いというのを列挙している。たとえば,

一般化
省略
歪曲

とあるが,とくに気になるのは,省略の一種(だと思う),

遂行部の欠落(あるいは遂行主体の曖昧化)

といわれるものだ。

誰が,
誰にとって,

という主体が,対象が,意識的にぼかされる。NLPのテキストは言う,

「話し手は,自分に当てはまるルールや自分の世界モデルを,他人にも押し付けようとする時に,遂行部の欠落を使います。」

あたかも,

すべて,
みんな,

ということで,何かを手に入れようとする子どものよく使う手のように。

「みんなそうだよ」。

参考文献;
佐伯啓思『正義の偽装』(新潮新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:55| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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