2014年07月30日


死は,

歹(骨の断片)+ヒ(人)

で,人が死んで骨片になることを指す。

逝は,あの世へ行く
歿は,姿が見えなくなること,
暴は,いなくなること,
崩は,山が崩れるようになくなること。天子の死に用いる,
薨は,見えなくなることで,諸侯の死に用いる,
卒は,身分の高い人の死ぬこと,四位五位の人が死ぬこととある,
寂は,入寂,僧侶の死に用いる,
瞑は,死者が目を閉じて永眠するのを指す,

等々ある。まあしかし,おのれについては,

くたばる,

がふさわしい。あるいは,

朽ち果てる,



お陀仏

か。昨今,

不在のそこ,

ということを,しきりに意識する。前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401327978.html

書いたが,

自分のいないそこ,

という意味だ。嫉妬に近い。別に死期を察している,というような殊勝なことではない。

死期については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398561730.html

で触れたが,近さが,間違いなく実感できるほどになったということだ。

死は,両親の死も堪えるが,友人の死の堪え方は,ちょっと違う。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398323501.html

で触れた。まあ,まだ立ち直れないというか,立ち直ることはないだろう。むしろ,おのれの死をどう向かい入れていくか,というように変わるのかもしれない。

唐詩選の有名な,

年々歳々花相似
歳々年々人不同

をふと思い出す。

洛陽城東 桃李の花
飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
洛陽の女児 顔色好し
行くゆく落花に逢うて長歎息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開くも復た誰か在る
已に見る 松柏の摧けて薪となるを
更に聞く 桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城の東に無く
今人還た対す 落花の風
年々歳々、花相い似たり
歳々年々人同じからず
言を寄す 全盛の紅顔の子
応に憐れむべし 半死の白頭翁

かつては,若い人の立場で,そう見ていたように感じる。いまは,

半死の白頭翁

で見ている。歳の移り変わりを,詠嘆する気にはなれない。

明日ありと思う心のあだ桜,夜間に嵐の吹かぬものかは,

とは親鸞の言らしいが,

花に嵐のたとえもあるぞ

とか,

月に叢雲,花に風

とかは,この一瞬の楽しさ,美しさが,束の間に消えていく,

ことを言っている。いわば,

無常

だが,どうも,そのポジショニングは,自分には

よそごとか,上から目線か,

を感じてしまう。もっと切実である。

明日死ぬ,

と思っている人間に,言える言葉ではない,と考えてみれば,そのギャップは大きい。

そのいま位置いるのである。別に深刻ぶっているのではなく,実感である。だから厄介なのだ。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:唐詩選 親鸞
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posted by Toshi at 05:42| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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