2014年08月04日
呪う
あまりひとを怨んだり,呪ったりということをした記憶もないし,したいとも思わない。しかし,人からは,恨まれたり,呪われているような気がする。
呪う
は,語源的には,
「祈る(ノル)」+「ふ」
で,基本は,「祈る」の延長戦上にあるものらしい。
祈り続ける,
には違いないが,
相手に災いがあるように祈りつづける,
ということらしい。確かに,
のろう,
を漢和辞典で引くと,
呪
詛
が出て,後は,異字体の「咒」等々である。
呪
は,
口+兄
で,もともとは,「祈」と同じで,
神前で祈りの文句を称えること
なのだが,後,「祈」は,
幸いを祈る場合,
「呪」は,
不幸を祈る場合,
と分用されるようになった,とある。
詛
の,
且
は,俎(積み重ねた供えの肉)や阻(石を積み重ねて邪魔をする)を示す。「詛」は,その流れで,
言葉を重ねて神に祈ったり誓ったりするみと,
の意味だ。どちらも,神に祈る行為の延長戦上で,
自分の幸
ではなく,
他人の不幸
を祈るところへシフトする。しかも,
他人の不幸を実現することで自分の幸を実現しようとする
という,屈折した祈りだ。
ひとを呪わば穴二つ,
というのだが,視野狭窄の中にある執念には,見えなくなっている。
しかし,人を呪うというのは,どういう心性なのだろう。
父のせいとか,
母のせいとか,
誰某のせいとか,
世の中のせいとか,
結局その事態を招いたのは,他人ではなく,自分でしかない。それを受け入れられないというのは,どこかに,
嫉妬
か
羨望
か
妬み
があるのに違いない。
自分もそうなれたはず,
自分もそれを手に入れたはず,
なのに,そうならなかったのは,自分側ではない,
外的(阻害)要因
があったと
考えたい,
のか,
思い込む
のか,
信じ込む
のか,
いずれにしても,自分の側に,
理がある
正当性がある,
正しい,
善がある,
と思わなければ,人を落とし込めるはずはない。
それは,いわば,唯一の視点しか持てていない,自分を相対化するメタ・ポジションが持てないということなのだろう。
いやいや,他人事ではない。自分の側に要因を求めなければ,結局,
成長というか,
前進というか,
はなく,たった一つの,その時点に,何年も立ち止まったまま,ということだ。そんな,時間が過ぎていくのも気づかぬぐらいの一念があるなら,とついつい思うが,そういうものでもないのだろう。
そういうのもまた,一つの人生だ。それを選んでいるのは,おのれ自身なのだから。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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