2014年08月05日
待つ
ふと,待つというのは,待っている側の時間軸しか見ていないのではないか,ということに気づく。
よく,相手の沈黙を待つ,という。しかし,それは,待っている側の勝手な都合であって,相手は,自分の時間軸で黙っている。
そう思って振り返ると,
待つ,
を少し違う視点から気づくことがあった。
まず,「まつ」の語源は,
マ(間)+ツ(統)
で,時間をひきしめてあわせるようにする
という意味。それに「待」の字を当てた。そこから,待つの意味は,
①来るはずの人やものごとを迎えようとして時を過ごす
②用意してもてなす
③のけておく
④しようとする動作を途中で止める
⑤(俟つ)頼りとする
といった意味になるが,
で,当てた漢字,「待」は,
寺(手足の動作を示す)+彳(おこなう)
で,
手足を動かして相手をもてなす,
とあるが,別の出典では,
彳(あゆむ)+寺(止まりまつ)
で,立ち止まって待つ,ともある。このほうが,「待」の字を当てた意味がわかる。
そもそも,「まつ」には,
待(来るをまつ,また来ればあしらいをする意がある)
佇(たたずむ,まっている)
俟(せかずにものが自然とそこへ来るまでまつ)
候(うかがう,はべる,まつ)
徯(望むところがあって待つ)
竣(待に同じ)
遲(いまやおそしと待ちわびる)
須(互いに求めて相待つ)
と,当てる漢字に差がある。「待つ」と当てたのには,意味がある。
しかし,いずれも,「待つ側」の視点である。いや,言い方が変か,「待つ」と言っているのは,あくまで,
待っている側
の言い分であって,待たれる側は,待たれていることを迷惑と思うかもしれない。僕は,若い頃,待つこと三時間,ようやく待ち人がやってきたが,いまならわかる,その
遅刻
には意味がある。来たくない,あるいは逡巡,躊躇が反映している。待ち合わせの遅刻には,相手にとっての意味がある。そう思うと,よく待ち合わせで,相手が遅れることが多いのは…,いやいやそれは別の話題。
よく,
相手の沈黙
を待つとか
相手の返答
を待つ,という言い方をする。「待てるかどうか」という言い方をする。しかし,考えたら,それは,待っている側の時間感覚というか,「まつ」という姿勢自体が,待つ側の視点でしかない。
待たれている側は,
待っていてほしいと思っているとは限らない。ただ,このまま黙っていたい,この沈黙の中にただひたすら浸っていたい,このままシカトしたい,このままばっくれたい,と思っているかもしれない。しかし,うざいことに,目の前の相手が,いかにも,待っているという姿勢,表情で,見つめている,ということに辟易するかもしれない。
待つ
という行為自体が,待つ側の主観というか,思い入れに過ぎない,ということに,たぶん待つ人は,ほとんど思いが至らないだろう。だから,待たれる側は,遅刻する,黙りこくる,返事を遅らす。
待つ
とか
待てる
等々ということが,自分の時間軸でしかものを見ていない証拠に過ぎない。
相手には,相手の時間軸があり,その時間軸に合わせるとすると,それは,もはや,
待つ
ということではないはずだ。なんというのだろう,
寄り添う
のか
ともにいる
のか,
いずれにしても,もし本当にそう言う姿勢なら,待つという感覚とは遠いはずだ。いや,待つという感覚はないはずだ。
それぞれ人は,自分の時間軸帆を生きている。待つとは,自分の時間軸と相手の時間軸との微妙な隙間をあらわにする。
待たれる身より待つ身
待たるるとも待つ身になるな
等々という感覚は,両者の,そういう時間感覚の違いを言っているようにも見える。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください