恥ずかしながら,
30代
は底なしの無知であったと,いまは思う。おのれの無知をしらぬ無恥といっていいか。吉本隆明が「無知の栄えたためしはない」を,論敵に贈っていたのを,おのれのことではないと思っていた。おのれの無知に気づかぬ無恥ほど恐ろしいものはない。
無知
とは,
知識がないこと
智恵のないこと
とあるが,どうもそういうことではない気がする。確かに,
無(ない)+知(知る)
で,知らない,ということに違いないが,中国語源では,
無恥
つまり,
無(ない)+恥(はじ)
恥知らず,の意味だという。なかなか意味深で,確かに,
知らないこと
ではなく,
知らないことを知らないこと,
と考えると,無知は無恥に通じる。
子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。
と,孔子が,由(子路)にこう諭したのも,そう考えると意味深い。
しかし,だ。「知らざるを知らず」とするのは,そういうほど簡単ではないのだ。何を知らないかがわかるというのは,知についてのメタ・ポジションが取れることだ。そんなことがたやすくできるはずはない。
別のところで,孔子は,自分自身は,「生まれながらにして之を知る者」ではなく,
学んで之を知る者
であると言っているが,「学んで之を知る者」の次は,
困(くる)しみて之を学ぶ
者であるという。しかし,問題は,何を,どう苦しめばそうなれるかだ,といまなら思う。これは,自分の体験だから,
たまたまをそもそも
としているかもしれないが,鍵は,
アウトプット
だと思う。インプットではなく,アウトプットすることで,脳のシナプスの回路は強化される,というが,僕は,「知る」とは,自分の言葉を得ることだと思う。ひとは,
その持っている言葉によって,見える世界が違う,
と,ヴィトゲンシュタインを読んだとき,自分流に理解したが,その独自の言葉が,その人の見ている世界を示す,と思っている。僕は,初めて一書をまとめたとき,その瞬間は,気づかなかったが,
新しい視野
を得たのだと思う。僕は,それを,
パースペクティブ
と言う。「知」は,パースペクティブなのだと思う。自分にしか見えない世界を手に入れた,と言うと,大袈裟で不遜なのかもしれない。しかし,ピンではなく,キリだとしても,あるいは,他の誰かがすでに言っていることだとしても,それでもなお,
自分の世界を語る言葉
を手に入れたことが大事なのだと思う。それは,
視点
なのかもしれないし,
視角
なのかもしれないし,
ビューポイント
と言うべきものかもしれない。それは,それを表現するコトバを手に入れたことでもあるのではないか。そこで,初めて,
見える世界
がある。それが,おのれの視界であり,景色である。それが,その人の手に入れた「知」なのだと思う。もちろん,レベルの高低もある,是非も正否もある。しかし,自分のパースペクティブを手に入れなければ,その「知」と言う土俵で語ることができない。別の言葉で言うと,
借り物ではない言葉,
借り物ではないパースペクティブ
といってもいい。そのとき手に入れたものの完成度もレベルも,いま考えれば,恥ずかしいくらいかもしれない。しかし,小なりと言えど,自分の視界を手に入れたのだと思う。そこからしか,知の更新も,知の拡大も始まらない。
因みに,そのとき広げたおのれのパースペクティブの風呂敷からは,結局出られない,のかもしれない。そこで得たのは,おのれの視界の射程なのかもしれない。そして,それ以降は,おのれの顕在化した限界との戦いなのだ,と気づく。
いまも日々更新中だが,そうは射程は伸びてくれない。しかし,あの一瞬のフロー体験があったからこそ,脳細胞が沸騰するとはどういうことかが,キリはキリのレベルで,想像がつく。いま,更新しても,あの時の,興奮と白熱は,なかなかこない。
その意味で,自分のパースペクティブをもてているかどうか,
がその人が独自の知を築いたかどうかの目安なのだと思っている。言葉遣いの中に,その人独自の言葉があるはずである。借り物ではない,その言葉に,その人の見ている,独自の
視界
がある。それは,知識の多寡ではないように思う。知識の先に,その人だけに見える視界が開けているかどうかなのだと思っている。それを,和辻哲郎流に,
視圏
と呼んでもいい。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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