2014年08月16日
飛ぶ
以前,ころんだ折,一瞬の空白が生まれた経験がある。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/399176805.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163455.html
で書いたが,その瞬間の体というか,現実の状況に,意識がついて行かない,行けないという意味での,意識の断絶だ。しかし,過日,墓参の折,電車を降りようとして,ドアまで行って,ふいに意識が切れた。
この場合は,意識が切れて,身体が崩れたのか,身体が崩れて意識が,それを追い切れず,空白になったのかは,実はよくわからない。
正直,身体が崩れる瞬間の記憶にない。一瞬後,自分が,電車の入り口でしゃがみこんでいるのに気づいた,ですぐに立ち上がったが,何が起きているかが,自分でも,よく分からず,しかも,
視界がしばらくぼやけていた,
意識の側が切れて,身体のコントロールを失ったのかもしれない。これに似た経験は,一度だけある。ずいぶん前,夜中にトイレに行こうとして,廊下で,一瞬身体が崩れ落ちた。心配して,病院へ行ったが,医者は,空白の時間を聞いた。で,
数秒
と言ったら,鼻先でせせら笑った(ように見えた)。そのときも,廊下にへたり込んで,何が起きたかがわからなかった。今度は,傍に友人がいて,近くにいたたおばさんも倒れるのを支えようとしたらしい。友人曰く,
腰砕け
のように崩れた,という。そう言えば,右ひざの上をドア側にぶつけたのか,赤くなっている。それ以外,どこにも怪我はなかった。そばにいたおばさんは,
水を飲んでください,
と助言してくれた。考えてみれば,朝方出かけて以来,水分を取らず,焼酎を何杯か飲んだ。酔い崩れるほどではないので,一種の熱中症かもしれない。
その一瞬が,まったく意識できなかった,
というのがちょっとショックであった。その空白は,ほんの一,二秒くらいで,崩れたところから,何が起きたのか分からず,あわてて立ち上がった。
別にすべてを意識化しているわけでもないし,意識でコントロールできているわけでもないが,
自分がどこにいるのか,
何をしているのか,
が一瞬真っ白になるのは,気色が悪いものだ。
意識が途切れて,糸が切れたマリオネットのように,身体が放り出され,数秒にしろ,その自分の状態が把握できず,大袈裟だが,瞬時,自分自身がこの世から消えた感じなのである。
正確には思い出せないが,ドアに身体を寄せていて,不意にドアが開いて,バランスを崩したのかもしれない。しかし,崩れる一瞬のことは全く記憶にない。
で,その間,声も音も,感覚から消えて,まったくの空白があって,不意に,いつもと違う,見上げる視界に,意識がぼんやり気づき,
おや,どうしたんだろう,
と,その間,ちょっと間があって,やがて事態が朧に察せられ,あわてて立ち上がった,その後しばらくは,まだ視界が,紗がかかったように,少しぼやけていた。
ひょっとすると,その前四日間の仕事の疲労が溜まっていたことも加わって,悪い条件がいくつか重なったせいかもしれないが,昼日中,街の真ん中で崩れる,というのは,ちょっと自分への自信を喪わせるに十分な出来事ではあった。
いつも意識を研ぎ澄ましているわけでもないのに,いざ,ちょっと意識が飛んだだけで,少し慌てるというか,動揺するのも,無意識で,体力の低下を自覚しつつあるせいかもしれない。
無事之名馬
というが,これは,臨済宗でいう,
無事是貴人
をもじったものだとされている。一切の計らいを捨てて,自然体で悟りを啓くのが貴いという意味らしい。それが茶道で,一年の無病息災を寿ぐ言葉として転用された,という。
その意味では,
無事是貴人
の意味転用に,
無事之名馬
が重なり合わさったことになる。
しかし,何もしないで無事ということはないというのは,怪我しないための細心で入念な手入れを怠らないイチローを見ればわかる。
昔,経験を積むというのは,
馬齢
を重ねるのとは違う,と後輩から揶揄されたことがあるが,いやはや,まさに,馬齢を重ねた,つけかもしれない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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