2014年08月19日
めくじら
ずいぶん前,万引きをした中学生を追いかけて列車事故死させた古書店主が非難囂囂,とうとう廃業に追い込まれた。今度は,25万円のブリキの玩具を万引きされた古書店が、「期間内に盗品を返さなければ犯人の顔写真を公開する」と警告したところ,警察からの要請で顔写真の公開を取りやめた。それに対して,
「刑法の規定では、正当な債権を取り返す場合でも脅迫すれば脅迫罪になる。今回のケースは、現時点で恐喝未遂に当たる」
という識者の意見が出ていた。あるいは,
古書店側が人間違いをして,無実の人が犯人として顔を晒される危険がある
という説まで新聞には出ていた。
しかし,おかしい。問題のすり替えなのではないか。結局,弁護士曰く,
盗まれ損
なのだという。何かが,おかしくはないか。法的な不備かもしれない。しかし,そうではなく,万引きしたものを庇う風潮がある気がする。これって,まっとうに,わずかな利で稼ぐ小売りをなりわいとするものを殺すことではないのか。
そもそも万引きしたのは本人の意志である。だとすれば,追いかけられて死んだとしても,それはおのれの所業のつけなのではないか。それこそ,マスコミや為政者の言う,
自己責任
なのに,それを,万引き被害者に転嫁し,あたかも,盗まれたものを追いかけたり,告発するのが,過剰と言うのは,どう考えてもおかしい。
万引きごときで,目くじらをたてるな,というのだろうか。しかし,小事をないがしろらするものは,大事にも高をくくる。大事は小事に宿るのである。
たかが万引きと言うが,例えば,これは普通の新刊本の書店の例だが,
利益率が低い業界の書店の利益は一冊あたり2割程度である。1冊盗まれたら,元を取るのに5冊売る必要があり,利益を出すためにはもう1冊,つまり6冊,6倍も売る必要がある。万引き1回に対して6倍の売上、努力が必要,
なのだそうだ。たかが「万引き」ではないのである。もっと利益の低いコンビニなどは,もっと深刻だと思う。
一説によると子供時代から数えて,万引き経験のない人はほとんどいない,という。ネットでは,
ある二十代の女性が嘆いていた。友人らとの会話の中で,万引き経験がないことを言うと,「嘘でしょう?」「あり得ない」「信じられない」と,誰もまともに信じようとしなかったというのだ。「誰だって一度や二度は万引きをしたことがあるのは当たり前」と,万引きをしたことがない彼女はむしろ異端扱いされた,
という記事すら掲載されていた。
一事が万事である。これが,わが国の実態である。
「人のものを盗んではいけない」
と,子どもにハッキリと言い聞かせている親がどれだけいるのか,と思いたくなる。ひょっとすると,
嘘つきは泥棒の始まり
ということわざは,もはや死語なのかもしれない。なんせ,泥棒が常態になっているのなら,たかが噓くらい誰も気にもしないだろう。そのせいかどうか,平然と国家のトップが嘘を並べ立てて,恥じることがない,というのは,すでに何ごとかを象徴している。この嘘については,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140811-1.html
で,すでに触れた。
しかし,実は,もっと深刻なのかもしれないと,ふと気づく。
泥棒はいけないこと
と,建前ではわかっている。しかし,本音は,少しぐらいなら見つからなければいいのではないか,と思っている。それが積み重なれば,タテマエは,あってなきが如く,雲散霧消する。ただの本音の隠れ蓑に堕す。こっちの方が深刻である。言っていることとやっていることのギャップが大きい。そして大きいことを承知している…!
万引きとは,
「マン(一時的な運・マン)+引き」
で,マン(運)よく引き抜く(盗む)ことを言う。よく言われる,
間+引き
を語源とする説は疑わしい,という。万引きは当て字,
買い物をするふりをして隙をみて盗む
ことを言う。まさしく,
正業
への挑戦である。まっとうに働く者を助けない社会に,一体どうして喜んで税を納めるのか。税を納めている側が損なわれ,非難されるような世の中はどこか歪んでいる。
僕は危惧する。
タテマエでは,勤勉,汗水たらして働くことを言いつつ,実は,本音では,それを馬鹿にしている。いかに楽して儲けるかしか考えていない。それは,倫理(僕はいかに生くべきかという人のありようについての価値観のコア部分と思う)が崩壊しているのではないか。
それが,嘘や欺瞞を当たり前とするだけではなく,汗水たらす努力を厭い,さっさと万引きして済まそうとする風潮につながっていないか。一度,簡単に果実がでに入れられれば,万引き感覚で,他人の成果物も平然と盗む。現に農作物の盗難が相次いでいる。
それをゲーム感覚などという言葉の遊びにすりかえるのは,卑劣である。
しかし,窃盗を万引きと言い替えているところで,実は,ごまかし,自己欺瞞がある。軽くしようと,軽いと思い込まそうとしている。敗戦を,終戦と言いくるめたことから始まって,69年たって,その敗戦自体をなかったことにしようとしている心性とは,どこか地続きではないか。
いやいや,すでに民主主義,不戦の誓いと言う文言が,戦没者式辞から消えたという以上,タテマエすら危うくなってきたのかもしれない。
めくじらとは,
ささいなことにむきになる,
目角を立てて他人の欠点を探し出す,
という意味だが,語源的には,
「目+くじら(端・尻)」
で,目尻のことである。で,めくじらを立てるで,眼角を立てて,他人の欠点を言い立てる意となる。しかし,
小事は大事
という。たかが万引きと,めくじらを立てぬものは,人としての基本的なありようが腐っている。基本の構えがなっていない,気がしてならない。
めくじらをたてすぎ?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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