いい歳
いい歳をして,
とか
いい歳こいて
とか言われたりする。
ある言動について、そういったことをする年齢でもないだろうに、といった意味合いを込めて言う表現。年不相応に。半ば非難の意味で、あるいは諌める意味で用いられる場合が多い。
相応の分別ができていい年齢,その年齢にふさわしくない行為や状態をあざけっていう語,
とある。あるいは,
年不相応に言動が稚拙だったり服装が若作りだったりして不恰好である様子,
ともある。まあ,面と向かってと言うよりは,蔭で言われることが多いのかもしれない。わが盟友は,かつて,
いい歳かっぱらって,
を口癖にしていたが,自分がその年齢になったせいか,ピタリと言わなくなった。
相当の年齢
分別ある年齢
とは,しかし,具体的に何歳を指すのだろう。僕より一回り位上の作家が,
昔の三十歳と今の自分とではずいぶん違う
というニュアンスのことを言っていた記憶がある。坂本龍馬や西郷隆盛が三,四十歳と考えると,ずっと分別臭く見える(だけかもしれない,なにせハロー効果が大きいので)。
分別というのは,
道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。
仏語で,もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。
世間的な経験・識見などから出る考え
とある。では,別に歳とは関係ないではないか,と思うが,どうやら,三番目の,
世間的な経験・識見などから出る考え
から来ているのではないか。一定の年齢を積んだら,それだけの識見がある,はずと言うのである。
分別は,
分(わける)+別(区別する)
で,物事を整理して判断する,という意味になる(「ぶんべつ」と読むとそういう意味になる)。いわば,
わきまえ,
思慮
の意味と言う。ここでも,年齢は関係ないのではないか。
子曰く,後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆることなくんば,これ亦畏るるに足らざるのみ
での孔子のありよう,言動が分別なのではないか。いわゆる目利きである。だから,分別に,加齢は関係ない。加齢したら,成長するというものではない。いい歳をして,おのれが出来もしない,「中国と戦争して勝ちたい」などと暴虎馮河を吹聴し,(自分は口説の徒で何もしないから,人を)煽り立てるアホな年寄がはびこる昨今,ひよっとしたら,
分別盛り
も死語である。分別盛りとは,
成人して豊かな人生経験を持ち,物事の道理が最もよくわかる年頃
という。ひょっとしたら,孔子先生の言われる,
子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う,七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず
もまた死後である。その輩が,幼児教育に,
論語の素読
を挙げていた。笑うより仕方がない。おのれはまともに『論語』を読んでもいないか,
論語読みの論語知らず
のくせに,等々と言うのは,きっと
馬の面に小便
だろう。いやな世の中になってきた。だから,
いい歳をして
は死語なのだ。何か,老人臭い連中が,時代錯誤のアナクロニズムで若い人を引っ張りまわすのは,見るに堪えない。何かと言うと,教育勅語や武士道を持ち出す。
おきゃあがれ,
と海舟なら言うだろう。全国民を,
士(大夫)
にでもするつもりなのか。そうなって,困るのは,おのれたちなのに,
子貢,君に事えんことを問う。子曰く,欺くこと勿れ,而してこれを犯せ,
と言う。
而してこれを犯せ,
とは,「殿ご乱心」の場合は,「犯せ」,つまり逆らって諌めよ,と。さすれば,こぞって諫言だらけのはずである。
論語読みの論語知らず
とはこのことである。
子貢問いて曰く,如何なるをか,これこれを士と謂うべき。子曰く,己を行うに恥有り…,
という。「恥」とは,おのれの倫理の問題である。つまり,おのれの「いかに生くべきか」のコアとなる価値観の問題である。だから,僕は,サムライ(士)とは,
心映え
を言うのだと思う。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html
で書いた。心映えの濁った連中は,孔子の言う,
匹夫も志を奪うべからざる,
の片言隻句もわからぬ輩である。そのどの口が言うのか。
論語の素読
と。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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