2014年08月23日
家臣
谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』を読む。
谷口克広氏の近刊『信長と将軍義昭 - 提携から追放,包囲網へ』を予約購入する際,つい間違えて,一緒に購入してしまった。
実は数年前,新書版で読んでいるはずで,それを失念して,タイトルだけで,Kindle版でまた購入してしまった。こう言うことは,恥ずかしながら,結構ある。読んだことを忘れている。購入してから書棚にあることに気づく場合もあるが,読みだしても気づかない場合もある。どこかで読んだような,と思って初めて気づくこともある。読んでいないで,積読だと,同じ本を何冊も購入したこともある。
こんなレベルの読み方なので,右から左へ,読み飛ばしているから,身になってはいない。
今度は,秀吉,信長からすこし外して,家臣という側面に焦点を当てて,読み直してみた。
信長と秀吉の関係をみるとき,いつも思い出すのは,信長の,秀吉正妻おねへの手紙である(というよりは,返事である。ということは,おねが秀吉の浮気を訴えた手紙が存在するということになるが)。
「藤吉郎れんれん不足の旨申すのよし,言語道断曲事候か。いず方を相尋ね候とも,それさまほどのは,又再びかのはげねずみ相求め難き間…これより以後は,身持ちようかいになし,いかにもかみさまなりに重々しく,悋気などに立ち入り候ては,然るべからず候」
おねをなだめつつ,やきもちをたしなめている手紙である。よく,信長の気遣いの例として出されるが,それ以上に,秀吉及びおねへの(ただならぬ)厚意を感じる。他に,こうした,個人的な家臣の妻にあてた手紙があるのかどうか知らないが,おねがそういう手紙を直々,信長に出して個人的なことを訴えられる関係が面白い。そこには,おねと信長の関係以上に,「はげねずみ」と呼ぶ秀吉への信長の親しみを,ここから感じる。
では家臣としての,秀吉はどういう家臣だったのか。
秀吉が,確実な史料に登場するのは,永禄八年(1565)で,
「尾張と美濃の境目に本拠地を構えている坪内氏に宛てた証文で,信長が坪内氏に発給した宛行状の副状である。当時秀吉は二十九歳だが,もう信長の奉行人ないし武将格にまで出世している。」
微賤の身から小者として仕えた秀吉は,後に小早川隆景に手紙で書いたように,「家中のものの真似のできない」ような「寝る間も惜しむ」働きぶりを示す。著者はこう書く。
「宣教師ルイス・フロイスも言っているが,信長は早起きである。それに,突然たった一人で駈け出すこともある。側近にしてみれば,常に目を離せない主君なのである。秀吉は小者ながらも,まず直接信長に知ってもらい,次には目を懸けられるよう一生懸命に努めたものと思う。おそらく睡眠時間を大幅に削って頑張ったのだろう。」
と。ついに,天正元年(1573),小谷攻めの功で,北近江三郡を与えられる。十二万石の一国一城の主となる。さらに,天正八年,播磨,但馬を与えられ,五十万石大大名になる。その動員兵力は,備前・美作の宇喜多直家の軍と合わせると,三万になる。
著者は言う。
「信長は能力至上主義者だから,低い地位の者を抜擢した例はたくさんある。それにしても,秀吉ほどの出世は類がない。出発点が小者の身分で,最後は(中国)方面軍司令官にまで登り詰めるのだから,これ以上ありえない出世である。小者なら小者の仕事,奉行なら奉行の仕事を常に全うするし,部隊指揮官に出世したなら,戦いの中で自分の指揮する部隊を最大限に生かそうとする。天賦の才に恵まれていたのは確かだが,それ以上に,現実を直視しながら他人の何倍も努力を心掛けていたというのが,秀吉の出世の秘訣であろう。」
と。あの信長が,秀吉のおべっかなんぞに欺かれはしない。そうではない,陰日向のない勤勉さと努力を,よく分かっていたのだと思う。
「例えば,元亀元年から天正元年までの三年間,秀吉は浅井攻めの最前線である横山城に置かれる。何度も敵の逆襲をしのぎ,見事にその地を守り抜く。その多忙の間,秀吉が畿内の地に発した文書が二十点近くも見られるのである。度々京都に上っていたことがわかる。」
あるいは,こんなエピソードがある。播磨攻めの最中のことである。
「秀吉の猛烈な働きを見て,信長は,……いつになく優しい手紙を秀吉宛に送る。
『よく働いた。戻ってきて一服せよ。』
しかし,秀吉はきかない。
『いえ,このぐらいでは,たいした働きではありません。』
とせっかくの慰労を断って,隣国の但馬まで攻め込み,いくつかの城を落とすのである。
秀吉が安土に報告に上がるのは,十二月になってからだった。ちょうど信長は三河に鷹狩りに行っていたが,出発する前,秀吉が来たら褒美として渡すように,と天下の名物『乙御前釜』を用意していた。信長がこれほど家臣に気を遣うことは珍しいことである。」
この主従の関係は,阿吽の呼吸に見える。
「秀吉は,信長の家臣としての務めについてよく知っていた。思い切り働いて成果を上げさえすれば,信長は必ず認めてくれるということを心得ていたのである。」
だから,
「三木城攻めの時も秀吉は,ずっと不眠不休の努力を続けた。二年近くの攻囲の末ようやく攻略した後,彼は有馬温泉に行き,二日二晩眠りつづけたという。」
では,秀吉の家臣は,どうか。例の高松を撤退した秀吉は,一日一夜で姫路城まで戻る。そこで交わされた会話が,『川角太閤記』に出ている。
「風呂からあがった秀吉は,城に蓄えていた金銀や米をすべて家臣に分け与え,籠城の覚悟のないことを示す。そして,(信長馬廻りで,監察として派遣されていた堀)秀政に向かって次のように宣言する。
『此の度,大博奕を打ち,御目に懸くべき候』
それに対する秀政の弁,
『御意の如く,世間の為体(ていたらく),博奕も成目に来たり,風も順風と見え申し候。帆を御上げなさるべく候。こなたなどの御身上からは,か様の時,二つ物懸の御分別御尤もかと存じ奉り候』
この秀政の言葉の後,側にいた(祐筆の)大村由己が,『名花の桜,唯今,花盛りと見え申し候,御花見御尤もかと存じ奉り候」,さらに黒田孝高が『殿様には御愁嘆の様には相見え候得ども,御そこ心をば推量仕り候。目出度き事出で来るよ』と…」
秀吉をあおったという。問題は順序である。秀政は,信長のトップクラスの側近である。黒田は,秀吉の与力に過ぎない。秀政の発言こそが,この場では意味がある。そして,この両者の関係こそが,のちのち,天下取りに大きく寄与する。山崎では,秀政は,一手の指揮を執り,中川瀬兵衛,高山右近を指揮する。清州会議の結果,信長家家督が三法師となると,秀政は,その傅役となり,秀吉を支えることになる。
ついでながら,秀吉の家臣のように扱われているが,黒田官兵衛も,竹中半兵衛も,蜂須賀小六も,直臣ではない。あくまで,秀吉与力として信長から派遣されている。弟小一郎もまた,あくまで与力である。秀吉ではなく,信長の家臣である。その意味で,いわでもがなだが,半兵衛は軍師ではない。半兵衛の子,重門の書いた,『豊鑑』にもそんなことは書かれていない。『信長公記』には,半兵衛死後,
「六月廿二日,羽柴筑前与力に付けられ候竹中半兵衛,播磨御陣にて病死候。其名代として,御馬廻りに候つる舎弟竹中久作播磨へ遣わされ候」
という記述がある。竹中家の家臣を統率させるという意味である。半兵衛が,軍師でなければ,官兵衛が軍師であるはずもない。
参考文献;
谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』(学研新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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#信長・秀吉と家臣たち
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