自己認識
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』を読む。
本書は,1982年,コレージュ・ド・フランスで行った講義録である。編纂者の,フレデリック・グロは,
「フーコーは,獲得された研究成果について話すというよりは,ほとんど手探りするようにして,探求の進行を一歩一歩伝えようとするのである。講義の大部分の時間は,彼が選んだ文献の粘り強い読解と,その逐字的な注釈に充てられる。講義ではいわば『仕事中』のフーコーがみられるのだ。」
と,この年の講義の特異性を伝えている。そのせいか,たびたび,フーコー自身,
今日も少し立ち止まってみたいと思います。
ちょっと枝葉末節にこだわり過ぎて申し訳ありません。
みなさんにはあまりにも細かすぎて,足踏みしているような印象を与えるかもしれませんね。
等々と断りを入れている。確かに,あまりにも微に入り細に渉って,ギリシャも,ヘレニズム・ローマも,キリスト教にも,まったく学識のない自分がついていくのは大変だったが,そうか,ここまで綿密に,細心に文献を読みこんでいくのか,という,フーコーの学者としての読みの深さと視野の広さに同時進行で立ち会った気分ではあった。
本講義は,フーコー自身,まだ未完のまま,
自己への配慮
という観念を取り上げるところから,始まる。そして,ギリシャの
汝自身を知れ
との関係へと踏み込んでいく。通常考えている,「汝自身を知れ」は,デカルト以来というべき,
自分を見つめ,
自己の中に自己を見つめ,
そこに主体の真理を解釈する,
といった,「反省の病」(訳者)ともいうべき,自己との関係にある,自己認識,自己解釈とは別の,
自己との関係を結ぶことができるのか,
という問いへのフーコーなりの解答なのだといってもいい。
それは,キルケゴールの,
人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。
という,自己の中に自己完結して,入子のように入り込んでいく,自己との関係とは別のありよう,という意味と言ってもいいのかもしれない
しかし,それを,細部にわたって解釈したり咀嚼していくことは,到底僕の力の及ぶところではない。そこで,フーコー自体が,最終講義で,こうまとめているところから始めたい。
「本年度の授業で私が特に示そうとしたことは,次のことです。フランスの歴史的伝統や哲学的伝統においては―このことは西欧一般に妥当すると思われますが―,主体や反省性や自己認識などの問題の分析全体の導きの糸として特に重視されていたのは,〈汝自身を知れ〉という自己認識でした。しかしこの〈汝自身を知れ〉ということだけを独立して考えてしまうと,偽の連続性が打ち立てられ,うわべだけの歴史が作られてしまいます。つまり,自己認識の連続的な発展のようなものが考えられてしまうのです。この連続的発展は二つの方向で復元されます。第一に,プラトンからデカルトを経てフッサールに至る,根源性という方向,第二に,プラトンから聖アウグスチヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史です。このどちらの場合も,〈汝自身を知れ〉を導きの糸としており,そこから根源性ないし拡張へと連続的に展開されるのです。しかしどちらの場合も,明示的にであれ,暗黙の内にであれ,主体の理論が練り上げられずに背後に残されてしまいます。」
つまり,「汝自身を知」ろうとすることではなく,「汝自身を知」るとはどういうことかが,取り残されている,といいうのである。そのために,フーコーがここでしようとしたのは,
「この〈汝自身を知れ〉を,ギリシャ人が〈自己への配慮〉と呼んだものの傍らにおくこと,さらに自己への配慮という文脈や土台の上に置くことなのです。」
そして,
プラトン主義的モデル(想起のモデル)
キリスト教モデル(自己の釈義と自己放棄モデル)
ヘレニズムモデル(自己の関係の自己目的化モデル)
の三つ(の仮説)を立てて,自己と自己との関係性の在り方を掘り下げていくことになる。
プラトン『アルキビアデス』で言っている〈汝自身を知れ〉は,
「魂が自分の本性そのものを知ること,そしてそれによって魂と本性を等しくするものに到達することであることに気づかされます。魂は自分自身を認識します。そしてこの自己認識の運動において魂は,記憶の底ですでに知っていたことを再認するのです。魂は自分自身を認識します。したがって〈汝自身を知れ〉という様態においては,次のような自己認識が問題になっているのではないことは強調しておきたいと思います。つまり,自己の自己への関係,自分自身に向けられた視線が,内的な客観性の領域を開き,そこから魂の本性とは何かを推論する,ということではないのです。そうではなく,魂とはその固有な本質において,そして固有な実在性において何であるのかということを認識すること以上のことではなく,またそれ以下でもないのです。そしてこの魂の固有な本質の把握が真理を開示してくれる。この真理は,魂を認識対象とするような真理ではなく,魂が知っていた真理なのです。」
として,
「人が自己を知るのは,すでに知っていたことを再認するためなのです。」
そして
「自分自身を認識しなければならないのは,自己に専心しなければならないからです。」
と言う。で,(プラトン主義的モデルでは)
「第一に,自己に配慮しなければならないのは,人が無知だからです。人は無知であり,自分が無知であることを知らないのですが,(出会いや出来事や問いかけの結集として)自分が無知であること,無知であることに無知であることを発見するのです。……そこで自分に専心することによって,この無知に対抗しなければならないこと,あるいは無知に終止符を打たなければならないことさえ発見するのです。これが第一点です。自己への配慮という命法を生じさせるのは,無知の発見,無知の無知の発見なのです。」
そして,第二点は,
「自己への配慮が肯定され,誰かが実際に自己を気づかおうと企てた瞬間に,自己への配慮は『自分自身を知る』という点に集約されます。自己を知れという命法が自己への配慮に覆い被さるのです。自己の認識は,魂が自分自身の存在を把握するというかたちをとります。魂は叡智界の鏡の中で自分を見ることによって自己を認知し,自分の存在を把握するのです。」
そして第三点。
「自己への配慮と自己の認識の接点にあるのが,ほかならぬ想起なのです。魂が自分の存在を発見するのは,自分が見たものを思い出すことによってです。プラトン主義的な想起においては,自己の認識と真実を知ること,自己への配慮と存在への回帰が,魂の一つの運動の中で合流し,まとめられている…。」
これに対して,キリスト教的(修徳的・修道院的)モデルが,三,四世紀につくられる。その特徴は,
「聖書」に書かれ神の言葉や,啓示によって与えられた真理を知るために,心の浄化をする,ということが自己認識の前提となっており,その特徴は,第一に,
「自己を知ることと真理を知ることと自己への配慮の関係は循環的になっています。」
つまり,
「天獄で救われようと思うのなら,〈聖書〉に書かれていたり,〈啓示〉によつて現れたりする真理を受け入れなければなりません。しかしこの真理を知るためには,心を浄化するような知というかたちで自分自身を気づかっておかなければならない。反対に,こうした自分自身による自分自身の浄化的な知が可能になるためには,〈聖書〉や〈啓示〉の真理とすでに根源的な関係を持っていることが条件になっているのです。キリスト教においては,この循環こそが,自己への配慮と自己認識の関係についての根本的な点であるとおもわれます。」
第二点は,
「キリスト教では,自己の認識はさまざまな技法を通して実践されます。この技法の持つ本質的な機能は,内的な幻想を吹き払うこと,魂と心の内部に作られる誘惑を認めること,そしてひとが陥りかねない誘惑を失敗させることにあります。そのためには,魂の中に広がるプロセスや動きを解読するための方法が必要になります。この解読によって,こうしたプロセスや動きの起源や目的や形式を把握するわけです。」
つまり,自己の釈義が必要になる,ということである。第三は,
「キリスト教では,自分自身に返るのは,本質的かつ根源的には自己を放棄するためです。」
プラトン主義とキリスト教の間にかくされていたモデルが,ヘレニズム的モデルである。その特徴は,「自己を到達すべき目標としてたてようとした」というところにある。セネカやマルクス・アウレリウスを例にすると,
哲学には,「人間にかかわる,人間に関係する,人間を見る部分がある。哲学のこの部分は,地上で行うべきことを教える。」もうひとつは,「人間を見るのではなく,神の方を見る。哲学のこの部分は,天上で起きていることを教える。」
この両者の議論の順番は,
「まず自分自身を吟味し,考察すること,そして次に世界を吟味し,考察すること,」
なのである。「人間に関する哲学と神々に関する哲学」の順番の理由は,
「第二のももの(神々に関する哲学)だけが,第一の哲学(人間に関して何を為すべきかを問う哲学)を完成できるのです。…第一の哲学は…人生の中で不明確なさまざまな道を見極めるための光明をもたらしてくれる。…第二の哲学は,闇から私たちを引き離し,光源にまでみちびいてくれるのです。」
ここで言っていることは,
「主体の現実的な運動,魂の現実的な運動です。この運動が,この世界を形づくる闇から引き離し,世界を越えたところに上昇させてくれるのです。」
これは,言ってみると,主体自身の運動,メタ・ポジションづくりといっていい。この運動は,
「第一に,自分自身から逃れ,自分自身から身を引き離す運動であり,こうして欠点や悪徳からの離脱」
を果たすことになる。第二は,
「光がそこからやってくる地点への運動は,神へ私たちを導いてくれるのですが,だからといって,神において自分自身を喪失してしまったり,神においてみずからを滅ぼしてしまったりすることもない。そうではなく,私たちは神との本性の共有,神と共同して働くことへといたるのである。…つまり人間理性は神の理性と本性を同じくしているのです。…神が世界に対してなしていることを,人間理性は人間に対してなさねばなりません。」
第三に,
「このように光まで連れて行き,私たち自身から引き離し,神との本性の共有にまで導いてくれる運動において,私たちは最も高い地点まで昇ることになります。しかし同時に…その瞬間にこそ私たちは,まさに自然の最も奥深い秘密に分け入ることができるのです。」
僕には,すべてが理解できているわけではないが,フーコーが,セネカに代表されるヘレニズムモデルに,あらたな主体のありようを見ている,というように見えた。この運動は,
「この世界から離れて,どこか別の世界へ行こうとしているのではありません。現実から身を引き離して,なにか別の現実であるようなものに到達することではないのです。…世界の中でおこなわれ,世界の中で実現される主体の運動なのです。…この運動は,神と本性を共有する私たちを,頂上まで,この世界の最も高い地点に連れて行きます。この世界の頂上にいるとき,まさにそのことによって,自然の内奥が,秘密が,懐が,私たちに明らかにされるのですが,その瞬間にも私たちはこの世界を離れることはないのです。(中略)私たちは神が世界を見ている視点に到達しますが,この世界に対して本当には背を向けることなはしに,私たちが属している世界を見るのであり,したがって私たちは,この世界における私たち自身をみることができるのです。」
だから,視点の運動なのだと思う。自分対して,自分のいる世界に対して。だから,
「自分を知るためには,自然に対する視点を持っているという条件が必要」
であり,ここで言う自己認識は,自己分析とは無縁なものであり,
「自然についての知が解放的な効果を持つ」
のである。つまり,
「自然についての知,世界を踏破する大いなる視線,また私たちがいる場所から退き,ついには自然全体を把握するに至る視線…」
のことを指している。間違いなく,自己完結した自己対話を指していないことは確かであり,セネカの目指していることは,
「世界から離脱して,そこから目をそらし,別の現実を見ようという努力ではないのです。そうではなくて,中心的であると同時にひじょうに高い一点に身を置き,世界の全体的な秩序,私たち自身がその一部をなしているような全体的な秩序を見下ろすことなのです。…すなわち,世界認識そのものの努力,できるだけ高く身を引き上げ,そこから全体的な秩序としての世界を,…見下ろそうとする努力なのです。すなわち俯瞰的な視点であり,…この自己の自己への俯瞰的視点は,私たちが一部をなすこの世界を包み込み,そうしてこの世界そのものにおける主体の自由を保障してくれるのです。」
この主体における視点の運動は,そのまま認識の運動でもあり,それが単なる閉塞した自己認識でないことは,よく見える。その流れというか,そこに力を入れるフーコーが,この講義自体で,ハイデガーと対決をはかり,講義最後で,
「西洋哲学の問題がこのようなもの―すなわち,世界はいったいどのようにして認識の対象であると同時に主体の試練の場ともなりうるのかという問題,テクネー(技法)を通して世界を対象として自分に与えるような認識の主体があり,また,この同じ世界を,試練の場という全く異なった形式で自分に与えるような自己経験の主体があるということはどういうことなのか,という問題―だとしましょう。もし西洋哲学への挑戦がこのようなものだとするならば,なぜ(ヘーゲルの)『精神現象学』がこの哲学の頂点にあるかがよくおわかりでしょう。」
と述べて,ヘーゲル『精神現象学』を復権させた,その背景が,よく見えてくるような気がする。『精神現象学』を若いころ,ひとりで,逐語的に読んだときの,その朧な記憶から見ると,そこにある自己というものの,あるいは,自己と自己との関係の深さと奥行きというものは,現象学的な自己完結の世界に比して,圧倒的な広がりがあることだけは確かに思える。と同時に,昨今はやりの「自己」「自己対話」「自己発見」が,いかにうすっぺらで,何周もの周回遅れの気がしてならない,日本の精神風土の貧弱さを思わざるを得ない。
まあそれはさておき,セネカの運動のためには,様々な訓練が必要で,その一例として〈死の省察という訓練〉というのがある。この訓練は,
「ある一日に一月,一年,さらには人生全体が流れてしまうかのようにその一日を生きる,という訓練です。そして生きつつある一日の各時間は,人生の年齢のようなものであるのだから,夕べに至ったとき,ひとはいわば人生の夕べ,まさに死ぬ時に至っている。これが最後の日という訓練です。この訓練は,…一日の各時間が人生という長い一日の瞬間であるかのように,一日の最後の瞬間が人生の瞬間であるかのようにして自分の一日を組織し経験することなのです。このようなモデルにしたがって一日を生きることがてきたならば,一日が終わって眠ろうとする瞬間に,『私は生き終えた』と,喜びとともに笑顔で言うことができるのです。」
これに倣ったマルクス・アウレリウスは,
「最高の人格とは,日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ」
と書いている。ここには,瞬間に対する俯瞰的視点と,生全体に対する回顧の視点がある。視点の運動とは,こう言うことを言うのだろうと,思う。
大事なことは,この三つのモデルは,いずれも,
自己自身による自己自身の変容
ということである。それは,
いかにして真理を語る主体
たりえるかという,実践的な真摯な問いである。こういう問いは,和辻哲郎が羨望を込めて言った,西欧の,
視圏
に関わるように思える。そういう視点は,日本人には,持てるのか,いや,持ったことがあるのか,読むにつれて,おのれの薄弱な自己基盤(コーチングでいうファウンデーションのことではない,この世界を俯瞰するに足る知の不足のことだ)に,身震いした。それは,自己認識する自己の視点のことであり,見られる自己のことでもある。
参考文献;
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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