2014年08月29日
自画自賛
昨今自画自賛がおおはやりだ。中韓を貶めて,自分を褒めるというのもあるが,手放しの自画自賛もある。
自画自賛は,自己倫理の劣化以外の何ものでもない。
自分を褒めたい,
という言葉が有効なのは,42.195キロを走りきった有森裕子に許されるが,そうでないものに,そうそう口にするのは,ほとんどみっともないといっていい。思っても,口には出さないものだ。
それに似ているといっていい。
自画自賛は,野放図な自己肥大と地続きである。
日常はつつましやかで,謙虚であったが,箍がはずれると,途端に手のひらを返したように,尊大で,自己肥大する。これって,われわれ民族の宿痾ではないか,と思ってしまう。
自分を受け入れる
ことと,
自分を褒める
こととは違う,と僕は思っている。自己を褒めるには,褒める根拠がなくては,たんなる自己妄想である。妄想にいくら妄想を積み重ねても,自分の成長にはならない。
その果てに来るのは,根拠なき自信であり,根拠なき自画自賛であり,そのまま自己肥大していく。
自己を律するとは,自制である。別の言い方をすれば,
戒め
であり,
リミッターといっても言い。制約条件といっても言い。おのれを知るとは,
おのれ自身の現実を弁える
ということでもある。弁えをなくしたら,野放図に何でも言える。古いタイプの人間と言われるかもしれないが,そういう自制心こそが,その人の品格になる,と思っている。
本屋に行って感じるのは,そういう野放図な自己肥大の発露であり,目を背けたくなるような夜郎自大の横行である。恥を知る,という言葉は死語なのか。
学を好むは知に近く,力行は仁に近く,恥を知るは勇に近し
という。あるいは,士とは何かの問いに,
己を行うに恥有り
と,孔子は答えた。そして,あるところで読んだが,
「行己有恥」の四字を「博学於文」(ひろく文を学ぶ)と対句にし,門の扉の両側に対句としてしるしてあるのを,しばしば中国で見かける
という。
僕は,発奮のスイッチは,恥にあると思っている。おのれを恥じるからこそ,おのれを励まし,おのれを高めるバネになる。
はじ(らう)
は,
「端+づ」の連用形
から来ているらしい。
中央から外れている,端末にいる劣等感
が恥であるらしい。
面目がない,
という意味である。
恥
は,
耳+心
で,
恥じらいの心が耳に出る,
のが語源とする説がある。
はじ
には,
恥,辱,愧,羞,慙,忝,忸,怩等々があるが,
恥は,心に恥ずかしく思う義,重き字なり,とある。
辱は,はずかしめであり,栄の反対。外聞の悪いことを言う。そこから転じて,かたじけなし,と訓む。
愧は,おのれの見苦しきを人に対して恥じる意で,恥ずかしくて心にしこりがあること
羞は,心が縮まること。愧じて眩しく,顔が合わせにくいこと。
慙は,愧と同じ。はづると訓む。はぢとは訓まない。心にじわじわと切りこまれた感じ。
忝は,辱と同じ。
怩・忸は,恥じる貌を意味する。心がいじけてきっぱりしない
おのれを恥じるからこそ,身を正し,振る舞いを改め,おのれを高めようとする。謙虚とは,そこから生まれる。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
は,もはや死語か。大口をたたくのが,時代の潮流なら,僕は,そこから降りる。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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