尾籠な例で恐縮だが,
目糞が鼻糞を笑う
と言うのがある。
目やにが鼻垢を笑う
とも言う。
猿の尻笑い
とも言うらしい。しかし,どっちもどっちと言ってしまっては実も蓋もない。どうでもいいようだが,
どっちが上
なのだろう。
言ったもん勝ちか,
それとも一笑して,相手にしないが勝ちか。
破れ鍋に綴じ蓋
と言うのでは,あまりにもいじましすぎる。そこまでおのれを貶めることはない。
ごまめの歯ぎしり
と言うではないか。
山椒は小粒でもピリリと辛い,
という気概が欲しい。だとしても,山椒同士が貶めあっても仕方がないが,どっちが,上だろう。
しかし,ものを言ったり書いたりしたとき,おのずと視点というものがある。
目糞が鼻糞を笑う,
は,自分の欠点に気づかないで他人の欠点を笑う,
の意味からすると,目くそ鼻くそレベルの御両人が,自分を卑下して言うというより,その御両人を,別のところから嗤いながら,皮肉っている,と言える。ありていに言うと,見下している,と言えなくもない。だから,どっちが上などと,言うこと自体が,皮肉られているその罠にはまることになるかもしれない。
破れ鍋に綴じ蓋にも,自嘲のニュアンスというよりは,その辺りで我慢したら,という,ここにも,ちょっと上から目線を感じる。
ゼロ戦設計者を主人公にしたアニメの作者が,永遠の0の作家の賛美を批判していた文章を見たが,失礼ながら,僕には,目くそ鼻くそに見えた。このとき,僕は,不遜ながら,両者を上から俯瞰してみている。
この立ち位置は,免責された位置にいると言い換えてもいい。つまり,局外に立ってものを言っている。こういう批判は,実はあり得ない。架空のポジションだ。所詮,人は,好むと好まざるとにかかわらず,具体的場面に立つ。ある状況に置かれざるを得ない。それが生きるということなのだから。それは,目糞か鼻糞のいずれか寄りにしか立てない。それに近いか遠いかの差はあっても。
しかし,である。
子曰く,約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし
というように,自嘲はいただけないにしても,謙虚というか,謙遜というのは,大口をたたくのよりは,僕の性格にはあっている。「謙」は,
へりくだるという意味だ。「歉」(こころにくぼんだ穴があく)と類義。
兼は,禾(いね)を二つ並べて持つ姿
と,いくつも連続するというの意であるが,単に「ケン」という音を表し,
陥(カン。くぼんだ所におちる)
や
欠(けん。くぼむ)
と同系。で,「謙」は,
くぼんで退き,後ろに控える
意という。
「虚」は,やはり
くぼみ
を意味して,去(くぼんで退く),渠(くぼんだみぞ)と同系で,
むなしくする
という意味をもつ。虚己(おのれをむなしくする)のように。
「遜」の,「孫」は,
子+系
で,細く小さい子どもを表す。「遜」は,
細く小さくなって退く
ことで,損(小さくなる),巽(へりくだる),寸(小さい幅)と同系で,
一歩さがる
小さくなって後へ下がる
という意味になる。
いずれにしても,自分を小さく見せようとする。その場合,
自分をただ小さく控え目にする,
という意味もあるが,
相手に対して,(相手を敬っての意味と,相手に対する謙譲の意味とがあるが)自分を譲る,
というニュアンスがある。そのニュアンスで見ると,
破れ鍋と綴じ蓋
は,微妙な陰翳がある。この色合いは好きである。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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