2014年09月01日

どっち?


尾籠な例で恐縮だが,

目糞が鼻糞を笑う

と言うのがある。

目やにが鼻垢を笑う

とも言う。

猿の尻笑い

とも言うらしい。しかし,どっちもどっちと言ってしまっては実も蓋もない。どうでもいいようだが,

どっちが上

なのだろう。

言ったもん勝ちか,

それとも一笑して,相手にしないが勝ちか。

破れ鍋に綴じ蓋

と言うのでは,あまりにもいじましすぎる。そこまでおのれを貶めることはない。

ごまめの歯ぎしり

と言うではないか。

山椒は小粒でもピリリと辛い,

という気概が欲しい。だとしても,山椒同士が貶めあっても仕方がないが,どっちが,上だろう。

しかし,ものを言ったり書いたりしたとき,おのずと視点というものがある。

目糞が鼻糞を笑う,

は,自分の欠点に気づかないで他人の欠点を笑う,

の意味からすると,目くそ鼻くそレベルの御両人が,自分を卑下して言うというより,その御両人を,別のところから嗤いながら,皮肉っている,と言える。ありていに言うと,見下している,と言えなくもない。だから,どっちが上などと,言うこと自体が,皮肉られているその罠にはまることになるかもしれない。

破れ鍋に綴じ蓋にも,自嘲のニュアンスというよりは,その辺りで我慢したら,という,ここにも,ちょっと上から目線を感じる。

ゼロ戦設計者を主人公にしたアニメの作者が,永遠の0の作家の賛美を批判していた文章を見たが,失礼ながら,僕には,目くそ鼻くそに見えた。このとき,僕は,不遜ながら,両者を上から俯瞰してみている。

この立ち位置は,免責された位置にいると言い換えてもいい。つまり,局外に立ってものを言っている。こういう批判は,実はあり得ない。架空のポジションだ。所詮,人は,好むと好まざるとにかかわらず,具体的場面に立つ。ある状況に置かれざるを得ない。それが生きるということなのだから。それは,目糞か鼻糞のいずれか寄りにしか立てない。それに近いか遠いかの差はあっても。

しかし,である。

子曰く,約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし

というように,自嘲はいただけないにしても,謙虚というか,謙遜というのは,大口をたたくのよりは,僕の性格にはあっている。「謙」は,

へりくだるという意味だ。「歉」(こころにくぼんだ穴があく)と類義。

兼は,禾(いね)を二つ並べて持つ姿

と,いくつも連続するというの意であるが,単に「ケン」という音を表し,

陥(カン。くぼんだ所におちる)

欠(けん。くぼむ)

と同系。で,「謙」は,

くぼんで退き,後ろに控える

意という。

「虚」は,やはり

くぼみ

を意味して,去(くぼんで退く),渠(くぼんだみぞ)と同系で,

むなしくする

という意味をもつ。虚己(おのれをむなしくする)のように。

「遜」の,「孫」は,

子+系

で,細く小さい子どもを表す。「遜」は,

細く小さくなって退く

ことで,損(小さくなる),巽(へりくだる),寸(小さい幅)と同系で,

一歩さがる
小さくなって後へ下がる

という意味になる。

いずれにしても,自分を小さく見せようとする。その場合,

自分をただ小さく控え目にする,

という意味もあるが,

相手に対して,(相手を敬っての意味と,相手に対する謙譲の意味とがあるが)自分を譲る,

というニュアンスがある。そのニュアンスで見ると,

破れ鍋と綴じ蓋

は,微妙な陰翳がある。この色合いは好きである。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:00| Comment(0) | 視点 | 更新情報をチェックする
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