2014年09月03日
立つ
グランディングに,ちょっと久しぶりに参加させていただいた。夏風邪をこじらしたり,旧友が死んだりと,何かと落ち着かないまま,日があいた。
地に立つ,
という意味では,「立つ」という意味に着目したい。
立つについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.html
でも書いたが,立つの語源は,「タテにする」「地上にタツ」らしい。立つ,建つ,起つ,発つ,は中国語源に従うとある。そういう区別は,日本語にはないらしい。
「立」は,
大+-線(地面)
で,
人が両手両足を広げて地上に立つ形の象形
を意味する。立つは,人にとって特別の意味があるらしい。だから,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.html
でも上げたように,「立つ」には,目立つ,際立つニュアンスがある。しかし,立つことで,周りから,
はっきり姿が目立つ
という以上に,当事者にとって,視界が変わる,ということが大きい。ある意味で,立ったときから,ものを見る視界が変わったのは,何か,ただ視界が変っただけではないような気がしてならない。
言葉を覚えたころに,空中を飛ぶ夢を見る,とはユンギアンが書いた中で見たことだが,それは,ものをメタ・ポジションから見る,という意味でもある。立つこととそれは関係あるのではないか,とひそかに思う。
キルケゴールの,
人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。
という,自分に対するメタ・ポジションを取るのも,それとつながる。
右側の頭頂葉の「角回」という部位を刺激すると,被験者の意識は2メートルほど舞い上がり,天井付近から,「ベッドに寝ている自分」が見える,という実験が報告されている。
幽体離脱といわれる現象である。その部位がどうやれば刺激されるのかはわからないが,この実験を紹介していた池谷博士は,健康な人でも30%は幽体離脱を経験すると言い,
「有能なサッカー選手には,プレイ中に上空からフィールドが見え,有効なパスのコースが読めるというひとがいます。こうした俯瞰力」
も幽体離脱と似ている,と指摘しています。さらに,
「客観的に自己評価し,自分の振る舞いを省みる『反省』も,他者の視点で自分を眺める」
という能力も,いわば,幽体離脱の延長というふうに言えると指摘している。
「見る」自分でいる限り,自分の視点に気づかないが,「見る」自分を見ることで,つまり,「見る」自分を見る視点に立つ限り,自分の視点に気づけるし,視点を意識的に動かせる,ということは,僕もよく思っている。
ちょうど,コーチングでいう,
レベル1(自分に矢印)
レベル2(相手に矢印)
レベル3(両者に矢印)
と同じことだ。その意味で,
立つ
は,人の意識のありようを象徴している,という気がする。ただ,立っているだけではなく,すくっと,
屹立
している感じは,やはり,人ならではというか,人にしかできないふるまいなのだ。その意味では,それが持つ,
視界,
というか,そこから見上げたり,這いつくばった視野にいるだけではない視界を,意識することは,人として大事なのだろう,とつくづく思う。それと,
見下す,
見下ろす,
のとはまた別だ。それは,ただの勘違いでしかない。そんなポジションでもないのに,思い上がっているだけの錯覚でしかない。
そう言えば,真偽は知らないが,死ぬ直前,
ベッドの自分と周りの家族を見下ろす天井付近から見ている,
というのだか,最後の俯瞰なのだろうか。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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