2014年09月06日

読む


ウィキペディアによると,

江戸時代までは,主に四書五経など漢籍の音読が行われていたらしい。黙読が主となったのは,明治時代以降になる。

とある。本当か,と思ってしまう。

書見

という言葉がある。別に音読していたとは思わないのだが。

ヨム

は,語源は,

数える

で,

読む

数む

は語源が同じとされる。

「讀」

は,

文書をよむ

の他,

文書の意味を抜き出す

言葉を眼で見続ける

といった意味がある。

ただ,「よむ」を引くと,


讀む(よむ 書に対してよむ 一語一句ごとに短い休止を入れつつ文章をよむ )

詠む(よむ うたう 声を長くのばして詩歌をうたう 詩歌をつくる)

訓む(よむ 字義を解釈する 言葉で導き従わせる)

念む(よむ おもう 心中でふかくかみしめる 口を大きく動かさず低い声でよむ)

誦む(となえる そらんずる 声を出してよむ)

諷む(よむ ふしをつけてよむ)


などがある。だから,必ずしも,ただ黙読するのを読書と言ったとは限らないと思える。

『信長公記』は,信長旧臣の太田牛一の書いた信長一代記だが,面前で,牛一自身が,

誦した,

つまり,声に出して読んだという。その意味で,秀吉が,自身の事跡を,祐筆,大村由己に書かせた,

『天正記』中の,

『惟任退治記』

『柴田退治記』

なども,そうしていた感じがなくもない。

ま,ともあれ,声に出すか,黙って読むかは別として,

読む

というのはどういうことなのだろう。僕もいろいろな本を読んだが,


http://ppnetwork.seesaa.net/article/392861791.html


やはり,ただ読んで,その意図を聞き取っただけでは,心に残っていかない気がする。


学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。後世学者と言えば,書を読み文を作る者を指していうようなれども,古えを考えれば,決して左様な義にてはなし。堯舜以来孔夫子の時にも何ぞ曾て当節のごとき幾多の書あらんや。且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし。父子兄弟夫婦の間より,君に事え友に交わり,賢に親づき衆を愛するなり。百工伎芸農商の者と話しあい,山河草木鳥獣に至るまで其の事に即して其の理を解し,其の上に書を読みて古人の事歴成法を考え,義理の究まりなきを知り,孜々として止まず,吾が心をして日々霊活ならしむる,是れ則ち学問にして修行なり。堯舜も一生修行したまいしなり。古来聖賢の学なるもの是れをすてて何にあらんや。後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり。たとえば,詩を作るもの杜甫を学ばんと思いなば,杜甫の学ぶところ如何と考え,漢魏六朝までさかのぼって可なり。且つまた尋常の人にて一通り道理を聞きては合点すれども,唯一場の説話となり践履の実なきは口耳三寸の学とやいわん。学者の通患なり。故に学に志すものは至極の道理と思いなば,尺進あって寸退すべからず。是れ眞の修行なり。

こう言っていたのは,横井小楠だが,

学ぶとは,書物やわたしの講学の上で修行することではない。書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,おのれの心の修行でなくてはならぬ。

というところだろう。もっというと,

舜何人か

という気概でぶつかる,ということのようだ。

読書は,先人との会話ではあるが,そのまま受け止めては,おのれが消える,我流では,所詮身にならない。いつも,その兼ね合いで,格闘している。

新たな知見を手に入れると,いままでとの接合が難ししい。辻褄を合わせようとすると,かえって破綻する。そのときは,そのままにしておく,おのずと,矛盾を統一する,まったく異なるパースペクティブが開ける。それは,次元が変わるというのに近い。そういう読みができたことは,後々になって気づく。

たとえば,

いろんなことにくわしく, 要点をまとめることができたとしても, 自分が入っていない場合があります。 そういう人の意見を聞いていると 実感がないから,どうしても不満が残ります。

と,吉本隆明が言うのは,まとめるについても,その人の視点(あるいはパースペクティブ)がある,ということだ。その視点を手に入れる,ということが,読むことの成果だ。それは,読んだ直後ではなく,寝かせられてしばらくたってから,はっと気づく。

読みを経て,そこで,

何が,
どこまで見えるか,

が,手に入れられる。和辻哲郎の言う,「視圏」といっていい。それは,正否,是非,可否とは全く関係ない。ものが見える,ということの本当の意味だ。だから,関係ない。

堯舜も一生修行したまいしなり

とはその謂いにほかならない。読むたびに視界が開く(といいのだが)。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 読む | 更新情報をチェックする
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