ひとごと


ひとごとは,

他人事

と書く。

昨今自分のことを,ひとごとのように語る印象がある。しかし,それは,自分を対象化して,客観的に語っているようには見えない。そうではなく,自分を,

自分

というように,おのれをちょっと脇に置いて語っている,という感じなのである。主体としてのおのれではなく,ラベルとしてのおのれ,のように見える。それを感じたのは,

「親」

という言い方だ。

おやじ
とか
おふくろ

という言い方には,関係性がある。そう言った瞬間,そこに,

自分との関係性

が表現される。「くそ」がついたり「ばか」がついたりすれば,そこに自分の思いが入っているのがはっきり見える。しかし,

「親」

というとき,自分は,家族の関係から出たところから見ている。穿ちすぎかもしれないが,少なくとも,そういう言い方をするようになったのは,いつからだろうか。それは,家族そのものが,

賄いつきの下宿屋

のようになったのを反映しているのではないか,と僕は勘ぐっている。そこにあるのは,家族関係について,

ひとごと

であるという印象である。

では,ひとごとの反対は何か。どうも,そういう言葉があるかどうか知らないが,

じぶんごと(自分事)

というしかない。最近社員教育の分野でそういう言い方をしているらしいので避けたいが,「わたくし事」だと,公けに対する私になる。で,

わがこと(我が事)

という言い方もある。ま,しかし,いま使われているのに倣うとして,では,

じぶんごと

は,当事者と同じか。どうやら,最近の使われ方は,「自分ごと化」というような言い方をしているところを見ると,当事者意識を指しているらしい。しかし,これははっきり言って間違っている。

当事者の反対は,

第三者
ないし
局外者

である。当事者というのは,関係性を示している。というか,社会的役割の中で言われている。つまり,社会的役割については,前にも触れた気がするが,

「社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される。」

したがって,

「主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。」

という。ぶっちゃけて言えば,

お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,当事者意識は,

お互いの作り出していた関係

を主体的に自覚する,ということだ。だから,そこから離脱ないし,離れることを,

第三者
ないし
局外者

ということになる。ということは,ひとごとに対するじぶんごとという使い方は,当事者意識とは無関係である。

ここでいう,

ひとごと

じぶんごと

というのは,他者との関係ではなく,自分自身のありようを,自分のこととして認識するということだ。これができて初めて,役割を担うに足り,その役割の当事者たることを求められる。それ以前に,

自分の人生の舞台

を,自分が主役として生きる,あるいはそれを覚悟する,ということが,じぶんごとにほかならない。それは,

自分のいのち,
自分の家族,
自分の生活,
自分の時間,
自分の未来,

等々を自分自身との関係として,内から捉えることを意味する。それができなければ,

自分の人生そのもの

いや

自分の命そのもの

すら,ひとごとで考えているのかもしれない。それは,地に足ついていない,というより,ふわふわと実感のない生き方というのがあっているのかもしれない。いや,ありていにいえば,

自分として生きていない,

ということにほかならない。自分として生きるとは,

自分の意思

自分の感情

自分の思い

自分の振る舞い

自分の考え

をもって日々生きるということだ。

実感がない,
リアリティ感がない,

ということを聞くが,それは,日々,この現実の中で,

問題にぶつかり,何とかそれをやり繰りし,
感情的な葛藤を逃げずに向き合い,

悪戦苦闘しながら生きているということをしていないということだ。それは,悩んだり,怒ったり,泣いたり,わめいたり,興奮したりする,という自分の時間と空間の中で,日々を過ごすということだ。

それがなければ,たとえば,何かあれば親にすがり,何かあればそれに背を向け,葛藤から逃げていれば,自分にすら実体感がないのではないか。ましてや,自分の人生というものが見えないのではないか。それは生きていない,ということだ。なにも,日々生き甲斐で生き生きしている人生を指していない。そんなものがあると思って,日々の坦々とした平凡な生活に背を向けて,自分という狭い世界に閉じこもっているから,感情も,思いも,あいまいで,ふやふやなのではないか。

そこで一番失われるのは,想像力である。その人が生きている中身に応じてしかイマジネーションを生き生き描けない。だから,他人の痛みも,哀しみも,ほとんどひとごとにしか感じられない。

明日は我が身

他山の石


所詮対岸の火事としか見なければ,

戦争

ホームレス

貧困

難民

被曝


いずれはおのが身に降りかかるとは,想像もできない。本人が想像しようとしまいと,リアル世界の中にいる以上,火の粉はふりかかる。そのときになってからでは遅い。

いやいや,ひとごとではない。おのれのことでもある。自戒を込めて。

参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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