類推


たとえば,まったく未経験というわけではないが,必ずしも習熟しているわけでもないようなことを,引き受けることになったとき,たとえば,

いままでとはちょっと違う種類の仕事が舞い込んできたとき,

やれる,

という感覚があるのは,どういう根拠なのだろう。

できると思うのは,ただの錯覚かもしれない。しかし,その

できる感

が,錯覚ではなく,なにがしか根拠があるのと,錯覚(過信とも,思い上がりとも呼んでいいが)との差は何だろう。

まったく同じことなら,たとえ規模が大きくなろうが,単に運営上の問題に過ぎない。しかし,微妙にテーマや課題がずれている。にもかかわらず,その瞬間に,自分の中に,何か具体的なイメージのようなものがわく(ような気がする)。そのときは,

できる

気がする。逆に,明らかにずれているというか,ベン図ふうに言うと,自分の円と依頼の(想定する)円とか,かけ離れていれば,まず,やれるとは感じない。

無理

と思うのと,

できる

と思うのとの境界線は,そこだろう。しかし,別の言い方をすると,

できそう,

できるかも,

できる,

との差は,

できる

できると思う

の差といっていい。その差は,ベン図の円の重なり具合の差なのだろうか。

できる気がするとき,それは,根拠というような確かなものではない。自分の経験とスキルと知識を,過半はみだしたものなのに,何か,類推が効くところがある,と言ったらいいのか。

類推,

とは中国語で,

類比+推理

を言う。類似のものに基づいて,他を推し量る,という意味になる。

まったく同じではないが,似たような仕事をしたことがあり,その経験とノウハウを当てはめると,何とかやれる,

そんな感覚か。あるいは,小さなスケールで経験したことがあるが,その何十倍ものスケールということになると,そのまま当てはまらない隙間がある。それでも,その経験からなんとなくやり方とか構成が読める,というイメージか。しかし,

そのままやれるわけではないので,その隙間というか,その未知の部分が,不安をもたらす。

昔から,仕事というのは,

自分のやれるカタチに置き換える,

ということだと思ってきた。それを自責化と呼んできた。その意味では,未知で未経験なのは,

やれるカタチに置き換えのきかない部分が大きく残るときなのだと言い換えてもいい。

若い頃なら,怖いもの見たさで,まあ,失敗するのも経験と言えるが,ある程度のキャリアを積むと,なかなかそうはいかない。だから,逆に怖さはない。失ったところで影響は知れているからだ。

むしろ,自分の中の問題の方が大きい。

できると思うのだが,その根拠が見当たらないとき,結局,

できること

できそうなこと

との隙間を埋めるのは,ある種の経験でしかない。僕は,人の能力は,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)

だと思うが,問題は,

何とかした経験が,

何とかなる,

の背景に必要なのだろう。まあ,そのときの,

悪戦苦闘

の経験といっても言い。

知識には,

Knowing that(そのことについて知っている)

Knowing how(どうやるかを知っている)

とがいるが,Knowing howは,やった数で決まる。そして,未知の領域を埋めるのは,単なる過去の経験ではなく,過去の,未知と未経験を,

何とかした経験,

でしかない。それもまた,

Knowing how

なのかもしれない。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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