2014年09月12日
視野
菊池章太『阿修羅と大仏』を読む。
「インドで生まれた仏教は,広大なユーラシア大陸でさまざまな文化と混ざりあい,変質をかさねながら,東のはての島国にたどりついた。日本の仏教文化のはじまりとなった大和の地は,そうした長い道のりの終着駅でもあった。」
と前書きで書き,
「仏像や仏画にこめられた信仰の軌跡をユーラシア・スケールでたどってみたい。」
それをコンセプトに書く,と。それは,日本の仏教の来歴をたどる何千年もの旅でもある。たとえば,中宮寺の半跏思惟像は,著者によれば,三十年以上前には,「菩薩像」と表示され,その後十年して行くと,「弥勒像」と表示が変わり,現在は,中宮寺のホームページには,「如意輪観音像」と表示されている,という。
では,広隆寺の半跏思惟像は,「弥勒像」とされているが,それでいいのか。
ユーラシアからみると,半跏思惟像を,弥勒と呼ぶ例は,皆無という。多く,弥勒像は,X字に脚を交差させた交脚像である。雲崗石窟には,交脚の弥勒像が数多くつくられているが,その交脚像の左右に,
「片脚を膝の上にのせ,手を頬にあてて考え込んでいる人の像がしばしばみられる」
という。この半跏像は,
釈迦が考え込んでいるときの姿
をあらわすという。
「釈迦がまだ悉達多太子と呼ばれていたときの」「樹下で思惟する」
思いにふけっている姿を表す,と言う。なぜ太子思惟像が弥勒の脇にいるのかと言うと,両者には接点がある,という。
「弥勒はまだこの世にあらわれていない。世にあらわれていないから,当然まだ真理にめざめていない。つまり悟りを開いていない。その準備段階である。弥勒は兜率天人たちのもとにいてこの世にあらわれる日を待っている。それまで思惟をめぐらしている。
かたや悉達多太子もまだ真理にめざめていない。家にあってもやもやしている。考えごとの最中である。思惟のまっただなかにいる。つまり,どちらも真理にめざめるまえに考えにひたっているすがたということになる。」
半跏思惟像は,朝鮮半島にも伝わったが,弥勒と呼んだ例は見つかっていない。
「広隆寺の半跏思惟像…は,…(韓国の)徳寿宮旧蔵の半跏思惟像とほとんど瓜二つである。広隆寺の像は日本製ではないであろう。そして弥勒像でもない。」
では何の像か。
「推古天皇の十一年(603)十一月のことである。聖徳太子のもとにある仏像をまつる者を大夫らに求めた。そのとき秦造河勝が進み出てこれをたまわり,蜂岡寺を建てておさめたという。これは『日本書紀』にきされている。」
蜂岡寺,いまの広隆寺である。平安時代の寛平五年(893)までにまとめられた寺の財産目録によると,
「金色弥勒菩薩像一躯」とあり,割注に,「居高二尺八寸」「所謂太子本願御形」と記されている,という。さらに,中宮寺も,太子ゆかりの寺であり,
「中宮寺の半跏思惟像は太子思惟像と呼ばれるのがふさわしくないか。この場合悉達多太子に聖徳太子の姿がかさねられている。」
と推定する。
「ユーラシアにおける長い伝統のむなかでは太子思惟像が本来の呼び名だったのだから。」
と。そしてこう言う。
「私たちは広隆寺の半跏思惟像を弥勒と呼んできた習慣にひきずられすぎてはいないか。日本だけで考えるとそうなってしまう。しかしユーラシアに目を転じるとそれがはっきりする。そこでは,弥勒像は交脚像であり,あるいは巨大立像であった。かたや半跏思惟像は太子思惟像をあらわしている。これが仏教の伝統にほかならない。」
その半跏思惟像は,
「考えあぐねている若い悉達多太子のすがたである。…日本ではそれが聖徳太子にかさねあわされている。。さらに聖徳太子を観音の生まれ変わりとする信仰がシンクロナイズしている。」
と。広い視界の中でものを見ることの重要性を,改めて考えさせられる。特に,今日,自閉し,自画自賛の罠にはまっている潮流を見るとき,さらに広くユーラシアの端っこのわが国への重なり合わさった時間の軌跡が,そのまま古層のように堆積しているのに思い至るとき,それを広げて,辿る視点の重要性を考えさせられる。
例えば,六世紀の,北魏で始まった巨大な廬舎那仏づくりは,唐代までつづき,龍門に高さ17メートルの廬舎那仏がつくられた。ここから東アジアの大仏ブームが始まる。奈良の大仏は,その東漸の結果なのだと見るとき,まったく違った様相が見えてくる。
「廬舎那仏は大宇宙に君臨し,世界のすべてのブッダを統括する存在である。唐王朝の皇帝もまた世界の中心である中国に君臨し,周辺世界の国々を統括する存在と意識されている。こうして廬舎那仏の宗教的意味に政治的意味がオーバーラップしてくる。」
「聖武天皇が全国に国分寺を建立させ,その諸国国分寺を統括する総国分寺としたのが東大寺」である。その開眼法会は, 「聖武太上天皇と光明皇太后と孝謙天皇が臨席した。百官百寮が参列し,内外から一万人あまりの僧侶が招かれた」空前絶後の大法会であったという。
「開眼の導師はボディセナである。南天竺国つまりインドから日本へ帰化した人で,漢字をあてて菩提僊那とよばれた。」
「開眼供養では舞楽が奉納されている。…倭舞とならんで,唐古楽や高麗楽や林邑楽も披露された」が,中国,朝鮮,ベトナムと,「まさしくユーラシア・スケールの祭典だった。八世紀の日本はすでにインターナショナルだった」という,そういうスケールの中に奈良の大仏をおいて見ると,政治的意味と宗教的意味を重ねあわせる思想まで,唐にまねたという流れが見えてくる。
ユーラシアの果てだからこそ,時間軸が,層として堆積している。それを自己完結して考えているだけでは,決して視界は開けない。
興福寺の阿修羅像についても,
「フェスタのためにつくられた。」
と結論づける。「フェスタにつかうために造像された。それがユーラシアにおける長い伝統であった」と。フェスタは,日本で言う花会式である。
「ユーラシアではもっと盛大な祭りだった。誕生釈迦像を山車に載せて町中を練り歩く。これを行像と呼んでいる。」これに随行したのが十大弟子と阿修羅を含めた八部衆の像である。
そう考えたとき,興福寺の像が乾漆でつくられている理由が見えてくる。
乾漆像は,粘度の上に麻布をかぶせ,漆を塗り,それに麻布をかぶせて漆を塗るを繰り返し,漆が乾いたところで中の粘土をかきだす。だから,
「木の心棒のほかに中味ははいっていない。張り子の虎とおなじである。この技法は中国で行像のために考案された。それが中央アジアや日本に伝わったのである。」
度々火災にあった興福寺の仏像がそのたびに運び出されたのは,乾漆像で軽量であったのが幸いした。
確かに,帯にあったように,本書を読むと,「仏像の見方が変わ」る気がした。
参考文献;
菊池章太『阿修羅と大仏』(幻冬舎ルネッサンス新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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