2014年09月13日
描く
自分の描きたいことを書いているのでは,プロではない,
という言い方をする。読者は何を求めているのか,読者をあっと驚かすにはどう書いたらいいのか,と言うところに,物書きの真骨頂があるのだ,と。
もっともだと思うが,その説を僕はとらない。というか,僕はそれほど器用ではないので,そういうことができない。むしろ,
自分の描きたいことを書かなくて,何を書くのか,
という思いがある。せっかく,好きな物書きをするなら,おのれの好きでもないことを書いてどうするのか,と思ってしまう。まあ,だから,素人にとどまるのだろうが,しかし,思う。
売れるとか,売れないとか,を初めに考えて,面白いアイデア,画期的な商品が出ることは,ほとんどない,と僕は思っている。世に出て初めて,
こういうものが欲しかった
とか
こういうのを待っていた
という声が出るのは,市場調査をいくらやってもつかめっこない。だって,いまだかって,世に出ていないものなのだから。そのカギは,甘いと言われるかもしれないが,あのウォークマンがそうであったように,
自分が心底ほしいもの
あるといいと思っているもの
でなくてはならない。それは,自分の中にしかない。だから,
自分が面白いと思わないようなものを描いて何が面白いのか,
と思う。
だから素人なのだ,という突っ込みの声が飛んできそうだが,世の中の流れや動きを見極めて出てくる商品にろくなものはない。そうではないのだ,自分が心底欲しいものを創りだすことで,世の中が動く。だから,
考えることも,
書くことも,
面白いのではないか。それは,別の言い方をするなら,
見たこともない視界を広げる新しいパースペクティブ
なのだと思う。そういう世界があるのか,というような。
それには,顰蹙を買うのを承知で,口幅ったいことを言わせてもらうなら,
おのれを掘り下げる
以外に,新しい視界が開けることはない気がしている。結局一生かけても,掘り下げきれないで終わるにしても,だ。別の言い方をすると,
おのれ以外には,決して見えないパースペクティブを見つけること,
といっていい。それは,大袈裟だが,
新しい世界の見え方
と,いっていい。それを見つけるために,他の人の好みやニーズはどうでもいいことになる。読んでほしい読者に見えるものでは,いまある世界の延長戦上でしかない。
どれだけニーズ調査をしても,欲しがっているものを見つけられないのは,いまないものは答えようはないのだ。
確かに,
イノベーションを起こすものはセレンディピティだ。恐らく例外はない。セレンディピティとは「偶然の幸運」。予め計画されたイノベーションなんて大したイノベーションじゃない。
と脳科学者の茂木健一郎博士が言う通りなのかもしれないが,それは,ただ居眠りしているという意味ではないはずだ。本当におのれの見たいものを捜す,ということ以外にはない。
因みに,書くの語源は,
掻く,ひっかく
だと言われる。その意味では,
絵を描く
も
文字を書く
も
文章を書く
も同根ということになる。漢字では,
聿(ふで)+曰(いわく)
とか。しかし,はじめは筆ではなかったのではないか。竹簡や木簡に竹で描いていたのではないか。
ついでに,画(畫)くは,また別で,
聿(ふでを手に持つさま)+田の周りを線で区切ってかこんださま
という。
ある面積を区切って筆で区画を記すことをあらわす,新字体「画」の字は,「聿」の部分を略したもの。
まあ,いずれにしても,「書」も「画」も,「聿(ふで)」からは逃げられないようだ。
僕は,書くは,
えがく(描く,画く)
なのだと思う。錯覚かもしれないが,
自分だけに見える世界
をかくのである。その世界は,自分の中からしか見えてこない。方法や技法は,世界を描くのに使うのであって,その前に,
自分にしか見えない世界
を見つけなくてはならない。それは,一生分に値する。ついに見つけられないことも当然ある。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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