2014年09月14日

受け取る


人の好意や厚意を受け取るのが苦手である。元来,人から好感をもたれる質ではないので,言われ慣れないということもある。しかし,それ以上に,そんなものに値するとは,どこかで信じていないせいかもしれない。

これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163544.html

で,別の切り口で書いたことがある。僕だって,

評価

褒賞

とは無縁で生きてきたわけではないから,評価されれば嬉しいし,それが報奨につながれは,なお嬉しい。

確か精神科医の神田橋條治さんが,正確ではないかもしれないが,

ほめることは的にぴったり当たらなければなめられる。
然ることは三分的を外さねば逆らう。傷口に直接触れられるのは痛いものまである。その痛さから新しい気力がおこるものであるから,傷口の深さまで見極めねばならないが,的中必ずしも心を開かない,

と,あるところで言っておられた。あるいは,どこかで,評価が的中していない,と思っているせいかもしれない。

「ほめる」は,

ホ(秀)+む

で,秀でているのをほめたたえる,という意味である。ひとくちに,

ほめる(ほむ)

といっても,

褒(貶の反対。善をほめすすめる。褒美すること)

誉(毀の反対。みんなでもてはやす,ほめそやす意。)

賛(脇から励まして力を添える。脇からほめる)

讃(ことばをそろえて,脇からほめあげる)

賞(罰の反対。褒美すること。功労に相当する褒美をあてがう意)

美(刺〈そしる〉の反対。善いことがあるのを,よしとほめる)

称(たたえる。わいわいとおおっぴらに持ち上げる)

頌(容に通ずる。人の徳を詩歌などにつくり形容してほめる)

等々とある。

何を称揚し,何を賞賛し,賞美し,礼賛し,賛美するにしても,過褒,過賞,溢美は,こそばゆい。

人は,自分の判断基準をもって,凄い,素晴らしい,と言う。しかし,それは,その人の基準に過ぎない。褒められた側は,おのれの基準があって,いっとき称揚感があっても,レベルが低いと思うと,まだまだとおのれを奮い立たせようとする。そこで,誉められれば,その賞賛は,受け取れないのではないか。

毀誉は,評価である。評価とは,

品物の価格を定めること
善悪・美醜・優劣の価値を判じ定めること

とある。結局人は人を自分の秤でしか評することはできない。「三軍を率いて指揮するとしたら,誰とともにしたいか」と,子路に問われて,

暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり,

と孔子は答えた。そこには,問いかけた子路の一本気で勇猛を恃むことへのたしなめがある。この文章の前半は,顔回に対して,

これを用うれば則ち行い,これを舎(す)つれば,則ち蔵(かく)る。唯我と爾とこれ有るかな。

という言葉がある。それに反発しての子路の問いである。そこには,何を是とし,何を非とするか,についての孔子の明確な基準が示されている。

考えれば,『論語』は,孔子の評価基準そのものを示している。そのとき目の前にいる弟子に言っている言葉だ。たぶん,ぴたりと当てはまっていたに違いない。だからこそ,弟子はそれを記憶に残し,記録に残した。その言葉自体が学びになっていたからである。

だから,評価は,毀誉とともに,ピタリと当てはまらなければ,聴いた側は,ギャップの方に目がいく。

それは違う
ここが違う,

と,素直には受け取れまい。しかし,まあ,たぶん,あいまいに笑って流すしかない。受け取れない理由を説明するには,その乖離をいちいち説かねばならない。で,そう説明しても,その差がどこまで埋まるか…,辿れば,生き方の違いに行き着いてしまう。

勝海舟の福沢諭吉への返事,

行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存候

が,好きなのは,そこまで自恃高く突っぱねられないせいなのかもしれない。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:23| Comment(0) | 苦手意識 | 更新情報をチェックする
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