思い


人生初体験のお茶事の後,時間があるので,Fad Fairに参加されている,

https://www.facebook.com/events/329174273927366/?ref_dashboard_filter=upcoming

報美社の古石紫織さんの個展に伺った。

まず目についたのは一点,案内はがきに載っていた「森を抜けて」が正面にあって,目に飛び込んできたが,左手に,シリーズの,#4(だったか)だ。前者よりは,後者に,新しい何かを見つけそうな気がした(ちょっと影絵のデジャブ感はあったが)。

その花を少しデフォルメした絵を前に,作家に,話を伺っているうちに,

内的葛藤

をストレートに出した,とおっしゃった。思いというか,意味にこだわる方のようだ。聞き間違いかもしれないが,

デッサン(写生)に思いを載せて(初めて)絵になる,

というような言い方をされた。モノを描いた(写生した)だけではなく(それはまだ絵ではない),そこにおのれの思いが載せられて,初めて自分の絵になる,あるいは,

自分の思いを投影出来るモノに出会って,初めて絵になる,

ということでもある。それは,

おのれの思いを載せるに足るモノを発見した,あるいは創り出した,

ということなのかもしれない。ぼくは,

自分にしか見えないものを描き出す,

のが作家(文学者も含めて)なのだと思っている。

意味にこだわることは,僕は嫌いではない。意味づけは,目的の明確化につながり,おのれの大事にしている何か,価値につながるのだから。ただそれは,あくまで作家の内面の問題でしかない。

その意味で言えば,僕は,作家の思いではなく,作家が,思いを乗せて,描いたものにしか関心はない。どんなに思いが強烈でも,その思いが,表現のレベルとして,観る側に何かが見えなければ,その思いはなかったのも同然なのだから。

それで思い出したが,吉本隆明は,言語についてだが,

自己表出

指示表出

という使い分けをしていたが,それは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

で書いたように,時枝誠記の言う辞(主体的表現)と詞(客体的表現)につながる(時枝誠記は,日本語の構造は,客体的表現を主体的表現で包むという風呂敷型だと主張した),

自己表出は内的主観の表出

指示表出は外的な対象の指示

という意味であり,両者がなくては,表現自体が成り立たない。で,気になって吉本隆明の本を取り出して,ぱらぱらめくっていたら,

「言語の表現は,作家がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。」

という文章に出くわした。そのとき,その場面が,自分の表出しようとする何かと重なったということなのかもしれない。しかし,もっと言うなら,まずは自分の思いを言葉に載せる,その言葉を選び取った瞬間から始まるのかもしれない。しかも,その言葉が,必然的に次の言葉を導き出し,それにつられて文脈を引き連れてくる。

そのあたりの機微はよくわからない。というのは,

思いが言葉になる,
のか,
言葉が思いを引き出す,
のか,

は,ちょっと微妙に思えるからだ。だから,場面を選び出す前に,表現する対象を求める思いがある,と言ってもいいのかもしれない。

ただ,しつこいが,そのプロセスは,観る側にとってはどうでもいい。見せてくれたものが,

観たこともないパースペクティブを開いてくれるものであるかどうか,

だけなのだ。別に作家と同じものが見える必要はない。そこに,初めてみる,

光景を見るか,
心象を見るか,
感情を見るか,
風景を見るか,
おのが思いを見るか,

は観る側の問題で,開いてくれた視界が,観たこともない何かを眺望させてくれるかどうかなのだ。あるいは,そこにおのれの思いを託すに足るかどうかなのだ。

その意味で,思いをどう描くかは,すべての作家の原点のようなものなのだろう。横道に入るようだが,

思う

は,「オモ(面)+フ(継続・反復・動詞化)

で,相手のオモ(面・顔)を心に描き続けるという説があり,顔に現れる心の内の作用を表す,とする。

もう一つは,

「重+フ」

と,ものを思う気分は重い気分という説がある。ま,これは,ちょっと作為的かもしれない。

思いとは,思うに,自己対話である。いつも引いて恐縮だが,キルケゴールの,

「人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。」

である。しかし,自己対話自体は自己ではない。

自己対話との関係

つまり,自己対話そのものとの対話,

自己対話へのメタ・ポジション

である。だから,自己の葛藤が表出できる。そのとき,それを外へ表出しようとする,それが,愚痴であれ,怒りであれ,号泣であれ,暴力であれ,それはそれで,表出である。しかし,その表出は,

自己完結している。どこまで行っても,自己の自己の自己の自己…の,ちょうど鏡の中の自分の目の中の自分の目の中の自分の目の中の自分…を見ているだけだ。

それでもいいという人は,表現には向かわない。それを何らかのカタチで外在化させ,表現しようとするには,するだけの矜持というか自信というものがいる,

ここで見得ているものは,自分にしか見えないものだ,それを他の人にも見せたい,

というような。

確か,吉本隆明はどこかで言っていた。

文句なしにいい作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。

読者や観る側が,

そこにおのれのみの(おのれにしか見えないはずの)思いを見させる,

と言い換えてもいい。

それには,逆に言うと,作家自身に,自分にだけ見えた何かがあり,その見えた世界を,伝えようとする思いがあるからこそにほかならない,という気がする。

もちろん,ここでは,表現手段や方法の是非,可否はちょっと棚に上げている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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