2014年09月17日

小三治


広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』を読む。

小三治

と呼び捨てにしていいのかどうかわからないが,その方が師匠というよりは,親近感がある。

著者は柳家小三治の追っかけである。

「1970年代から落語を聴き始めて,僕は随分と小三治の高座を老い掛けてきた。古今亭志ん朝や立川談志も追いかけたが,単純に『ナマで聴いた回数』だけで言えば小三治が一番おおいだろう。」

本書は,小三治のインタヴューを採録した第一章と,小三治の主要演目九十席を紹介する第二章によって構成されている。

この本の出版自体,難航したらしい。

「一冊まるごと小三治読本」的な単行本

というアイデア自体に,小三治が難色を示した,というのだ。小三治はこう言ったそうだ。

「あなたの文章は好きですよ。(中略)ただねぇ,……私は談志さんじゃないから,自分のことを本にされたりするのはどうもねぇ……うーん……」

と考え込み,あらぬ話をし続けて,二時間後,

「まあ……あなたがこう思う,こういうところが好き,みたいなことを書くのはいいでしょう。誉められても喜ばないけどね。」

と,やっと出版にOKが出た,構想からやっと三年半を経て,上梓の運びになった,という。

九十席の方はともかく,二つのインタビューは出色である。

小三治が,

市馬に,

「お前の噺は押し付けがましい」「噺は,高座の上で起こっていることを,人が覗きに来て,クスッとわらうようなものじゃなきゃいけない」

(柳家)花緑に,

「ウケリゃいいとおもっているのか」

(桃月庵)白酒に,

「お前,この噺,いつもやってるだろ」

と若手に一言言ったことが,結構効いている,と言われた反応がおもしろい。

「ぶふっ(吹き出す)。そうかなあ。だとしても,それは会長(落語協会)になったから若い人たちがそう思うんであって,その前だって,言う時は言いましたよ。だって,他に私,言うことないから。今あなたが挙げた,私が彼らに言ったという内容は,私の,自分自身への戒めであったり,人を見る時の目であったりするわけです。高座の上から演説みたいに発表する形の芸っていうものは,私自身が面白くない。夢中になれない。笑わしてやろう,みたいな,何かを高座の上から放り投げてくる,台詞か何かをぶつけてくる…そういうものには全然,感じない。それは落語だけじゃない,他の芸もそうですね。コメディアンにしろ,漫才にしろ何にしろ,舞台の上で何かを埋めつくしてくれて,聴いているお客さんが自分の存在すら忘れてその舞台の中に溶け込んでいけるってことに,妙味を感じるタチなんだな。(中略)さっき名前が出たような噺家は,落語の何たるかをやろうとしている人たちなんだな,ってことは感じるわけですね。」

それは,ご自分が師匠の五代目柳家小さんに,

『長短』を聴いて,「お前の噺は面白くねぇな」と言われたり,
『あくび指南』について,「あの噺はあんなに笑わせる噺じゃねぇんだ」「ダメだよあれじゃあ。それじゃ(古今亭)志ん朝さんとおんなじだ」と言われたり,
『道灌』について,「お前の隠居さんと八っあんは,仲が良くねぇ」と言われたり,
「その了見になれ」と言われたり,

等々したことを,後輩に伝えている,と見えなくもない。

その会話の端々に,小三治の落語観というか,落語の世界観のようなものが見える。それだけを,拾ってみると,こんな感じである。

「私が辿り着いたのは,『どうだ,こんなすごい噺があるんだぞ』ということじゃなくて,たとえどんなすごい噺でも,そこから,自分の生活の中の,実体験の何かを思わせる,それによる共感っていうものが大事なんだ,」

(『長屋の花見』について)とにかくやれば,まあこう言っちゃ申し訳ないけど,仲間の誰よりもウケるな,ってことは知ってるんです。でもね。誰よりもウケるからやる,っていうのはね,自分の満足ではない。ウケなくてもいいから,自分が,,うん,これはいいな,と。自分で心を見たすことが出来れば満足なんですけど。ウケるからやってるっていうのは,なにかね,自分で自分をバカにしているように思える。」

(二ツ目の噺を聴いて)「世間で面白いって言われている人でも,あんまり面白くないっていう人が多かった。それより,面白くないけど,この人の噺って聴いてると,その中に引き込まれるな,っていうのがあるんですね。うんうん,で,その次どうなるの,それからどうなるの,って思えるんですよ。どうもね,最近の若い人は,ウケないといけないと思っているらしい……まあ私もそうだったかな。でも,ウケなくっていいんです。そこが志ん朝さんとちがう。」

(小さん師匠の「ご隠居さん八っつあんが仲が良くない」について)「『その了見になれ』。了見になれってのは,その人になり切れってことですけど,その人になり切ると,ウチの師匠が言うには,その背景が見えてくるっていうんですよ。だから背景が見えてこないうちは,なり切っていないんだな。」

「俺がやりたいのは,本を素読みにしても面白くないのを,噺家がやると,こんなに面白くなるのかい,って噺にしたいわけ。」

(小三治の『千早振る』を聴いた入船亭扇橋が「落語って哀しいね」と言ったことについて)「それはね,ホントにね,落語って面白くて楽しいんだけどね,哀しいんですよ,どっか。それはね,あいつから改めて突きつけられた。そう言われると,落語はみんな哀しい。『長屋の花見』にしたって哀しい噺だよ。」

「通りすがりの人がたまたまそこに咲いている花に目がとまって,ああ,いいな,と思うような感じで自分の落語を聴いてもらうのが一番いい。それをめがけてわざわざ見に来る,というのは好きじゃない。」

(扇橋について)「高座で,私の理想は扇橋です,つて言ったこともあります。でも若い時はあいつが理想じゃなかった。…歳取ってからの扇橋のどこが理想かっていうと,自分の世界を持っているっていうことですかね。ここでこうやってギャフンと言わせてやろうとか,そんなのは何もない。ヒョイヒョイヒョイ,ヒョイヒョイヒョイって感じ。四代目小さんっていう人の残した音源を聴いてみると,あんな感じだった。(中略)ずっと聴いていると,スーッと世界が広がっていくんですよね。」

「この頃,笑わせ過ぎだよ,みんな。何とか笑わせようと思ってクスグリ入れたりね。あんなことしてちゃ,ダメなんじゃない?自然に面白くって思わずわらってしまう,っていうのが落語なのに,どうしてあんなにクスグリ入れるんですか?それまでとってもいい出来だった人が,そのクスグリ入れた瞬間に,今までのこと全部ご破算になっちゃうんですよ。もったいないねぇ~!」

(上野鈴本の『山崎屋』について,扇橋が「またやってよ」と言ったことについて)「あの『山崎屋』はよかった。……なんて言ったってね,自分で良かったと思っても,そんなものは評価にはならないかもしれないけど,でも自分のためにやってる芸ですから,自分がいいと思えばいい。でも,なかなか自分でいいと思えないですよねぇ。あれは良かった。ただ,それを扇橋が聴いてたってこと,それをあいつが忘れないってことにビックリした。あいつ,芸がわかるじゃねぇか,と思っちゃったりなんかしてね(笑い)」

最後に,ライバルを聞かれて,そんなものはいない,と答えて,

「誰がライバルかっていうと,自分だった。今日は昨日の自分を追い越せたか,っていうのを,自分に課してきた。これはね,とてもつらいことになってきますね,だんだん。でもそれはもう,自分自身のトラウマみたいになっているから,癖として,変えることは出来ない。だから,これでいい,ってことは,多分ないでしょうねぇ。」

と答え,こう言うのが印象深い。

(いままでいちばんよかったということではないが)「自分がそこからスーッと抜け出て,何か違う世界出やっていたな俺は,みたいなものが,滅多にありませんけど,何回かあった。」

それは,著者の言う,2008年三月の三鷹での独演会の『千早ふる』なのにちがいない。自身も,「このまんま死んでもいいと思うくらい」の出来だったという。その場が「一つになっていた」と著者は振り返る。

随所に謦咳が聞こえてくるような錯覚を覚える。これだけで,もう十分小三治ワールドである。

参考文献;
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:小三治
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posted by Toshi at 05:07| Comment(0) | 落語 | 更新情報をチェックする
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