2014年09月18日
プロデュース
久しぶりに,第14回 アートプロデューサー竹山貴の「月例 あなたの知らない世界」
https://www.facebook.com/events/1518801601669591/?ref_dashboard_filter=upcoming
に参加させていただいた。いろいろ掘り下げた話が出されたが,そのままここで出すわけにはいかないので,僕なりの解釈で,まとめてみたい。
まずは,全体を聴いて,
Produce
ということの意味を思った。
Produce
を辞書で引くと,
前に(pro)導き(duce)出す
とあった。だから,意味的には,
生ずる,産する,創作する,描く,というアウトプットする系
と
引き起こす,将来するという招き寄せる系
と
提示する,提出する,取り出すといったささげる系
と
世に出す,上演するといったパフォーマンス系
等々があるが,どちらにしても,外へ出す,ということである。しかし,日本語では,
映画・演劇・テレビ番組などを企画・製作する
という意味に特化してしまう。だから,
プロデューサーは,
映像作品,広告作品,音楽作品,ゲームなど,制作活動の予算調達や管理,スタッフの人事などをつかさどり,制作全体を統括する職務
となり,プロデュースは,
「様々な方法を用いて目的物の価値をあげること」
ということになるらしい。それは,製作全般を統括するという言い方ではなく,元のproduceの意味のように,
前に導き出す
という意味に近い気がする。まあ,舞台を設えて送り出す,という感じか。しかし「前」へ,「舞台」へ,出すにしても,プロデューサー自身が,それを推せないものは出せまい。だから,僕は,プロデュースの鍵は,
目利きすること
ではないか,という気がした。それは,
メタ・ポジション
に立つ,といってもいい。作家も顧客も,あるいは歴史も,業界も,俯瞰するメタ・ポジションをとれること,それがすべてであるような気がする。で,その眼力を証明するためにも,作家を,どうエンカレッジし,育て,製作物をどうプロモートしていくかの仕事が,その意味として出てこざるを得ない。
この場合で言えば,作家という存在の目利きである。いまのそれから,どれだけの「のびしろ」があるかを,見極めなくてはならない。それは,こう言うことらしい,
本人の努力と精進で補えるものがどれくらいあるか,
というふうに言い換えてもいい,と。逆に言うと,
どんなに努力と精進をしてもどうしてもカバーしきれないもの
つまり伸び白の限られているもの,いわば素質を,見きわめることだ。
誰もが,どんなに努力しても(それができること自体が才能ではあるが)イチローにはなれない。才能という言葉は使いたくないが,もって生まれた素質というか素材の可能性を見極めるということらしい。
前にも書いたが,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
という公式は,実は素材の良し悪しを抜きにしている。教育のレベルではそう言うしかない。しかし,実は,どんなに努力しても超えられない壁がある。それは身をもって体験してきた。
アートの世界は,画いたもので,歴然と差がつく。
どんなデッサンが優れ,鋭い観察力を具えていても,それだけでは超えられないものがある。それは,原石に過ぎない。しかし,磨いて光る石か,磨いても光らぬ石かの,その素質が,備わっていなければ,努力だけでは超えられない壁がある。
しかし,目利きは,おのれの目利き力すらも,
メタ・ポジション
から見極めなくてはならないもののような気がする。
その目利き力は,想像するに,あるステージに上った時,はじめて,見える世界の違いに気づく,そういう類のものかもしれない。目利きする作家とは,多分二人三脚であるはずである。目利き力が挙がれば,それにかなう作家が,近づいてくる。そのポジションからの風景もまた変わるはずである。
自分がいいと思えないものをプロデュースできないはずである。
当然見える風景が変われば,目利きの基準もまた上がっているはずである。最近,竹山氏のプロデュース作家の絵が変わってきたような気がするのは,錯覚であろうか。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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