老い
老いは
不治の病
という。誰もが避けられない。
「おい」の語源は,
「老ゆの連用形(名詞化)」
で,「老ゆ」は,
「大+ゆ(自然に経過してそうなる)」
であろうとされている。で,
季節が終わりに近づく
意にも転じている。
老
は,象形文字で,
年寄りが腰を曲げてつえをついたたまを描いたもの
とする説がある。別説に,
「毛(髪)+人+ヒ(化ける)」
で,
人の髪が白く変化する
という意ともされている。唯一書に,
七十歳の称
とある。「曲礼」に,
大夫七十而致事
として,七十の別称として,
致仕
が,「七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」からくる,
従心
と並んで,七十の異称。
中国では,七十で,官を辞することが許されるという(日本もそれに倣った)。ちょっと,日本で言う,人生五十年は,貧しい倭国ならではのことなのではないか。五十六十は,まだまだ隠遁を許されない若輩なのだ。
では,「老い」を自覚してすべきことは何か。あるいは,老者がすべき天命とは何か。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163589.html
でも書いた。
命を知らざれば,以て君子と為すことなきなり
別に君子ではないとしても,
命
いわば,生きる意味,あるいは生きている役目
を思わなければ,ただ惰性になる。
死生,命あり,
富貴,天にあり
である。生き方は,
心映え
に現れる。いや,逆か,
心映えが,生き方に現れる。この頃,老いと戦うのをやめた。なんせ,不治なんだから,それと付き合うしかない。いわば,ずっと,
ホスピス
である。でも,頭は働く。頭を働かすことはやめないことだ。ただし,
老いの入り舞
は,つまり最後のひと花は,さもしい。そうではなく,メタ・ポジションというか,
目利き
見立て
こそが,使命なのではないか。ところで,セネカは,死の訓練について,
一日の各時間が人生という長い一日の瞬間であるかのように,一日の最後の瞬間が人生の瞬間であるかのようにして自分の一日を組織し経験する……このようなモデルにしたがって1日を生きることがてきたならば,一日が終わって眠ろうとする瞬間に,「私は生き終えた」と,
笑顔で言えるだろうと,言っているという。それに倣ったマルクス・アウレリウスは,
最高の人格とは,日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ
と書いている,そうだ。とすると,残された日々,このように生きてみるというのも,まだ間に合う処方箋,「人生の技法」なのだろうか。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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