2014年09月25日

アイヒマン


ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』を読む。

本書は英語で書かれたらしいが,英語で言う,

Crime against humanity

は,独語では,

人道に対する罪

人類に対する罪

の二つの言葉がある,と訳者は言う。当該語には,二つの意味が込められている。それは,単なる戦時の犯罪という以上の意味を,アーレントは込めているといっていい。

しかし,英文の(翻訳である)本文中では,アーレントは,こう書く。

「追放(例えば,在日韓国人を迫害したり国外へ追い出すことと言っていい)とジェノサイドとは,ふたつとも国際犯罪ではあるが,はっきりと区別されなければならない。前者は隣国国民に対する罪であるのに対して,後者は,人類の多様性,すなわちそれなしには〈人類〉もしくは〈人間性〉ということばそのものが意味を失うような〈人間の地位〉の特徴に対する攻撃なのだ」

しかしやっかいなのは,アイヒマンを単なる極悪人,人非人ということでは片づかないことなのだ。

「アイヒマンという人物の厄介なところはまさに,実に多くの人が彼に似ていたし,しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく,おそろしいほどノーマルだったし,いまでもノーマルであるということなのだ。我々の法律制度と我々の道徳的判断基準から見れば,この正常さはすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。」

その意図は,本書の副題が,「悪の陳腐さについての報告」とあるところからも推測される。

アイヒマンは,粛々と任務を果たし,初めは,

移送,

続いて,

強制収容

続いて,

殺戮

へと至る,ユダヤ人,ジプシーの輸送を担当し,結果として,六百万の人間の殺戮に加担した。殺戮されることを承知の上で,大量の人間をいかに輸送するか,関係部署との折衝,貨車の手配,運行スケジュールの調整等々を果たした。

もちろん,殺戮を指示したのは,ヒトラーだし,その移送と行先を指示したのは,上位者に違いない。しかし,殺戮されることを承知の上で,いかに効率的に大量の人間を輸送するかを考え,実行したことに違いはない。

アイヒマンは,しきりに言う。自分はユダヤ人を憎んでもいなかったし,殺そうとも思わなかった,と。

それに対して,アーレントは,最後に締めくくる。

「アイヒマン裁判で問題になったより広汎な論点のなかでも最大のものは,悪を行う意図が犯罪の遂行には必要であるという,近代の法体系に共通する仮説だった。おそらくこの主観的要因を顧慮するという以上に文明国の法律が誇とするものはなかったろう。この意図がない場合,精神異常をも含めてどんな理由によるにせよ善悪の弁別能力が損なわれている場合には,われわれには犯罪は行われていないと感じる。『大きな犯罪は自然を害い,そのため地球全体が報復を叫ぶ。悪は自然の調和を乱し,罰のみがその調和を回復することができる。不正を蒙った集団が罪人を罰するのは道徳的秩序に対する義務である』(ヨサル・ロガド)という命題をわれわれは拒否し,そのような主張を野蛮とみなす。にもかかわらず私は,アイヒマンがそもそも裁判に附されたのはまさにこの長いあいだ忘られていた命題に基づいてであるということ,そしてこの命題こそ実は死刑を正当化する究極の理由であるということは否定できないと思う。ある種の〈人種〉を地球上から永遠に抹殺することを公然たる目的とする事業にまきこまれ,そのなかで中心的な役割を演じたから,彼は抹殺されねばならなかったのである。」

しかし,これは,そのまま今日のベンヤミン・ネタニヤフをはじめとするイスラエル政権とその中枢の人々へも適用される,ということを,ユダヤ人であるアーレント自身が照らし返している。パレスチナ人には,裁く権利がある,と。

本書を読みつつ,僕は,いくつかのことを思い出していた。

第一は,スタンレー・ミルグラムの実験である。これは,いつも言われていることなので,他に譲る。しかし,人は,その立場になると,その役割を遂行しようと,平然と冷酷になれる。

第二は,いまは潰れた雪印食品の,ミートセンターの出来事だ。センター長は,会社の売り上げ不振をカバーする方法として,輸入牛肉に国産牛のラベルを貼ることを,三人の課長に提案する。一人は反対したが,二人は,黙っていた。後日新聞記者に「なぜ黙っていたのですか」と聞かれた二人の一人は,「サラリーマンだから,わかるでしょ」と答えた。ここにアイヒマンを見る。アイヒマンは,どこにでもいる,それをさせるのは,何か。

アーレントは,アイヒマンについて,

「彼は愚かではなかった。完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―,それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。」

と書く。愚かではなかったが,無思想だった。思想とは,イデオロギーの謂いではない。しかし,このアーレントの概念に,ほとんどの日本人,僕も含めた,ほとんどのわれわれに該当するのではないかと,僕は感じている。自分の頭で考える,という程度のことではない。そこで,思い出したのが,吉本隆明の『マチュウ書私論』での,

「人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。」

という言葉である。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

に書いた。吉本は,

「秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である」

とも言う。この場合の,「秩序に対する反逆」を,「ラベルの張り替えへのNo」と置き換えればいい。それが言えるのは何によってか。それを,

倫理

に結びつける,というのは,個人としての倫理,別の言い方をすると,

ひととしてどうあるべきか,

ではないか,と思っている。そして,それをおのれの生きている文脈に鑑み,

(ここで)自分はいかにあるべきか,

とつなげ,さらに,それを,

自分の生きているこの世の中はいかにあるべきか,

へとつながっていく。それを考えることを,僕は思想性と呼びたい。いま流行の,

いかに生きるべきか,

を自己完結して考えているだけでは,思想性とは言わない。それは倫理を自己完結させているだけだ。だから,

「関係性の強いる絶対性」

とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いるものを感じる,という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,

人は知らず,おのれにとっては,

と,考えて初めて,

人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,

というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない,ということに気づく。そのことを考えているかどうか,だといっていい。

誰もが,加害者になりうるのである。それを,自分の意志ではない,命令だから,上司が,国が命ずるから,という理屈は,アイヒマンの場合,許されなかった。ことが重大だったから,ということはない。そういう言い訳は,通用しない。

例は悪いが,エゴグラムで言う,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06423.htm

CPの強さが,ある程度その社会的役割や立場からもくるというのは,ひどく暗示的に思う。

それは,無思想である,つまり,いかにいくべきか,いかにあるべきかについて,無自覚である場合,陥る陥穽なのである。それは,また,誰もがアイヒマンになりうるということでもある。それは,今日のイスラエルを見ればわかる。

参考文献;
ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)
スタンレー・ミルグラム『服従の心理』 (河出文庫)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:23| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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