変化


報美社http://gallery-st.net/

隅田あい夏個展 ~来ちゃった、覗き網~

http://www.gallerycomplex.com/schedule/ACT115/sumida.html

に伺ってきた。案内ハガキをいただいたときは,

http://aika.pupu.jp/

変化を直感したのだが,個展会場へ入った瞬間,

変っていないな,

という印象を全身で受けた。

しかし,どうしても変わったところに目が行く。それは,ベイトソンではないが,情報とは,

差異

であるからだ。そのわずかな違いを考え出すために,心血を注ぐものだと思う。差異が,

尖っている,

あるいは,



として表面化しているとは限らない。たぶん,見方は,

見え方

見せ方

で左右される。変化を感じさせるものが,はがきに採用されたのかもしれないし,一枚だけを取り出して見るから,変化に敏感になるのかもしれない。大事なのは,全体の雰囲気というか,全体の基調が保たれている,という印象を与えることなのだろう。

僕は,個人的には,変化は,

蛻変

のような,変身のイメージでとらえているわけではないが,しかし変わった,ということが印象づけられるのを好む傾向がある。しかしほんの小さな変化で,印象として,図と地が入れ替わることはある。

そんなことを考えながら,長居をしてしまった。話に出た,

「ひとはマンネリは望まないが,大きな変化も望まない」

とは至言なのかも知れない。描き手は,僕の想像するに,昨日の自分とは違うものを,別の言い方をすると,

新しいパースペクティブ

を手に入れたいのではないか,と思ってしまう。しかし,実は,変化は,

僅かな差異

なのかもしれない。まったく別の視界も変化かも知れないが,そう見えるのか,と思わせるわずかな「そよぎ」も変化なのかもしれない。

気づくと,わずかに変わったところを見つけようと,眼を凝らしている自分に気づく。そして,

この変化は,自分にしかわかるまい,

と思い込ませるのも作家の仕掛けなのかもしれない。

そして,ふと思い至る,個性というのは,自分がそう認知するものではなく,

相手

がそう認知するものなのだ,と。自分で自分を認知したところで,所詮それは自己完結している。まあ,自己満足と言っていい。とすると,他者が,これが作家の世界だと,認めた世界が,作家の個性というべきものなのかもしれない。観る側が期待している世界を大きく損なうことは,この世の中につくり出した作家の世界の否定になる。

しかし,作家は,変わる。変わらなければ成長はない。すると,戦いは,その自分が創り出した(観る側の期待する)世界をどう崩すかなのだろう。それは,自分の過去との戦いでもあるが,観る側のイメージ(固定観念とも言う)との戦いである。そこで,

グラデーション

ということが出てくる。

わずかずつ微妙に色をずらしていく変化ということなのだろう。それは,季節の変化が,風の音やにほひで感じとるような,あるいは,葉の色の微妙な変わりようで感ずる,微妙な変化である。そこにピンポイントで着目すると,変化が図になるが,俯瞰するというか,距離を置いて,全体を見ると変化は全体の地に紛れていく,というような。

いや,思えば,日を経て振り返れば,白から黒へと変ずるのがわかるが,途中ではその変わりようには気づけない,その変化を察知し,

これに気づくのは,自分だけだ,

と悦に入るのが,吉本隆明の,例の,いい作品というのは,

「俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。」

である。次に,僕は,変化の尖端を見つけるのを楽しみにしたい。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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