発見
下定雅弘『精選 漢詩集』を読む。
著者は,本書の意図を,
「自然への隋順と融和を含む日頃のさまざまな幸福に,東洋の感性と,老荘思想を主とする東洋の思想が何気なく寄り添っている,…中国詩人の詩を中心にしながら,この東洋人の幸福感―生きる喜びが詠われている名作を読んでいこう。」
と述べる。その例に挙げたのが,陶淵明の詩である。
「『菊を採る東籬の下,悠然として南山を見る。山の気は日夕に佳し,飛ぶ鳥は相い与に還る。此の中に真意有り,弁ぜんと欲して已に言を忘る。』(『飲酒』其の五)とあるのは,『荘子』の中に出てくる話が下敷きになっている。…私たちは,『荘子』のどんな話か知らなくても,此処に何となく東洋的な味わいがあることを感じる。」
僕自身は,こう言う言い方が嫌いである。「東洋的」と丸めた瞬間,思い出すのは,右翼の大物に,書籍についてクレームを付けられ,肩に手を置いて,
「同じ日本人じゃないか」
と言われたと書いた作家の感じたと同じ,寒気である。こういう言い方は,詩人のそれではない。詩人は,何を下敷きにしようと,その言葉の向こうに,
自分にしか見えない視界
を見ている。いや,逆かもしれない。自分が見たものに,
言葉
をつける。その瞬間,その詩人の見た光景が,以降の人の見える世界を決める。それは,
風景(あるいは光景)
の発見であると同時に,
言葉
の発見である。人は,持っている言葉によって,見えている世界が違う,という。しかし,詩人が発見した風景が,以降,共有財産になる。そういう目で見ると,漢詩の発見した風景が,いかに,根強く,日本人の感性に影響を与えているかが,わかる。しかし,それは,たぶん,洋の東西を問わない。ひとしなみに,人間だからである。
そんな例をいくつか拾ってみる。
風は白浪を翻して花千片,雁は晴天に点じて字一行(白居易)
ここで,浪が白く泡立つのを「白い花」に見立てて,波の花に見る,和歌の言い方は,白居易の発見した風声である。波の泡立ちを「浪の花」に見える心情を詩人は作り出した。
あるいは,同じ白居易,
慈恩の春色 今朝尽く
尽日徘徊して寺門に倚る
惆悵す春は帰りて留め得ず
紫藤花の下 漸く黄昏
『和漢朗詠集』に収められたせいもあり,春の心情に決定的な影響を与えた,という。たとえば,
待てといふに留まらぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別れは(詠み人知らず)
君にだに尋はれてふれば藤の花たそがれ時も知らずそありける(紀貫之)
草臥て宿かる比や藤の花(芭蕉)
春,黄昏,藤の花,に同じ光景を見,同じ心情を懐く。詩人見せる言葉の力である。その言葉が描く光景の力である。
やはり,同じ白居易,
靑苔 地上 残雨を銷し
緑樹 陰前 晩涼を逐う
は,「雨後の清涼」「納涼」というテーマとして,
夕立のなごりの露をそめすてて苔のみどりに募る山蔭(定家)
に生きる。そもそも,雨上がりの涼しさが,光景として,初めて描き出され,それが心情として,共有化されたのだ。
冒頭の陶淵明の詩,
廬を結んで人境在り,而も車馬の喧しき無し
君に問う何ぞ能く爾ると,心遠ければ地もまた自ら偏なり
菊を採る東籬の下,悠然として南山を見る
山の気は日夕に佳し,飛ぶ鳥は相い与に還る
此の中に真意有り,弁ぜんと欲して已に言を忘る
日本には,空を悲しむ感情はなかったという。この詩をはじめ,中国の詩人にとっては,「悲秋」の感情である。いま,われわれは秋にもの悲しさを感じるのは,詩人の見せた光景から端を発している。
しかし,本書を読みながら,結局,読み下した詩を読むことは,本当の意味で,漢詩を楽しんだことになるのか,という危惧を感じ続けた。訳詩ともちがう,独特の日本語になっている。
昔から,素読というと,
子曰く,
である。しかし,それは訳ではない,微妙な日本語を読んでいるのではないかという気がしてならない。たとえば,
上よ
我は欲す 君と相い知りて
長えに絶え衰うること無から命めんことを
山に陵無く,江水為に竭き
冬に雷 震震 夏に雪雨り
天と地との合するとき 乃ち敢えて君と絶えなん
とは恋の歌である。「子曰く」なら,おごそかさが必要かもしれないが,この訓読は,明らかに,詩を歪める。
天よ
私は願います,あの人と愛し合って,とこしえにこの愛が絶えることがありませんように
山の峰々が崩れ,河の水が枯れはて,冬に雷が鳴り響き夏に雪が降り,天と地が合わさって
この世に最後が訪れるとき,その時にあの人と別れましょう
がその訳である。いわゆる素読が,基本的に原語そのものを歪めていることに気づくはずである。こういう読みは,いかがなものだろうか,とそんなことを考えさせられた。で,思い出すのは,井伏鱒二の訳詩である。
勤君金屈
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離(于武陵「勤酒」)
を,
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
この軽身が,読み下しでは消えてしまうのである。
最後に陶淵明の詩。
慵(ものう)しと雖も興猶お在り
老いたりと雖も心猶お健やか
我が意を得たり。
参考文献;
下定雅弘『精選 漢詩集』(ちくま新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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