2014年10月02日

前捌き


世の中は

ときて,

さようしからばごもっとも
そうでござるか
しかとぞんぜぬ

と受ける。

世の中は 左様然らば御尤も そうで御座るか確と存ぜぬ

と書いた方が,ぴたりとくるか。侍の尊大かつ事なかれ的な口の利き方,現実への対処方法を揶揄した狂歌,という。これさえ言っておけば侍は勤まる,という意味らしい。

講談の『赤穂四十七士伝』に,

「イヤに左様然らばでズルズル仕た風姿(なり)ばかり仕て居やがつてお品向きに上等なことを並べたてやがるから全然氣象が合やアしねい」

というのがあるらしい。まあ,いま時で言うなら,役人の口のきき方といっていい。

ネットで見ると,

①左様→そう。そのとおり。
②然らば→ということは。それならば。
③御尤も→なるほど。道理にかなっている。
④さうでござるか→そういうことですか
⑤確と存ぜぬ→はっきりとは知らないのですが…

とご丁寧に解説があり,

この五つの言葉さえ知っていれば,人と争うことなく八方美人的な人間関係を築くことができるという意味です,

とあった。

一般には,口は,もっともらしいことを言っているが,ただのその場しのぎ,というふうに受け取られている。だから,

検討します

と同じである。あるいは,日常会話の,

わかる,確かに,なるほど,マジで, スゲェ,

を返しとけばだいたい何とかなるのと同じである。他人への対応として,そう相槌を打っているだけ,腹の中では別のことを考えている,ということになる。

その意味での前捌き,あるいは捌きのうまさなのである。

前捌きの意味は,

相撲で立ち合いの時,先手を取るため相手の手をしぼり,いなすなどして,有利な体勢をつくること。
主要な事柄を順調に進めるため,あらかじめ行う処理。事前処理。下準備。

らしいが,僕は,ここでは,

いなす,
かわす,
そらす,
あしらう

という意味で使っている。本来の意味とは違うのかもしれないが。しかし,前捌きには,もう一つの意味がある。

こんな記事があるブログにあった。

「私の友人で,公務職場で非正規で働いている人がいる。
その人が教えてくれたのだが,ある福祉系職場で,正規職員の公務員が,『私たちの仕事は前さばきだから』と発言しているそうだ。非正規の人に実質的なサービスをしてもらうが,私たち正規職員は,3年程度で移動し,その仕事は事務的な作業だというような中での発言。『前さばき』といいつつ,正規職員は非正規の3倍以上の賃金をもらっている。」

話がそれるようだが,この書き手怒りはわかるが,この人には,仕事というものが全く見えていないらしい,と思う(非正規の業務遂行の視点からしか見えていない)。ここでは,「前捌き」の後者の意味,つまり,事前の手配り,根回しの意味らしいが,この人は,しかし,仕事を作業という「点」でしか見ていない,見えていない人には,仕事というものの意味は,ブラックボックスでしかない。

しかし,この前捌きがなければ仕事は円滑に進まない。仕事は,点ではなく線で,あるいは面でする。仕事は,ネットワークの結節点の連なりなのだ。そのために,上下左右への目配り,調整,交渉,折衝が,水面下でなされる。それがあって,点の作業が,線になり,面とつながる。これは,(いまの組織の構成要員で言うなら)正規職員にしかできない。もし正規職員が,この役割が果たせていないとすれば,非正規並みの仕事しかしてない,つまり点でしか仕事ができていないことになる。別に,いまの正規・非正規という人員構成を是とするつもりはないが,それがいま正規職員に求められていることなのだろう。だからと言って,今日の雇用形態の無用な多様化,差別化には,別の問題があることはあるが,それは,ここでの論旨とは外れる。

ま,それはともかく,この例も,上や横との調整という前捌きが上手くいかないと,実は仕事は進まないということだ。その意味では,いい意味での「あしらう」ということだ,ということができる。

話が横道にそれた。元へ戻す。

「左様然らば…」は,あまりいい意味に使われないが,しかし各国の方言がひどく言葉の通じなかった,たとえば薩摩と会津藩の武士は,謡曲の言葉に近い侍語で,さようしからば何々でござるということで,通じたという。そういう効用があるが,立ち入ったときはどうだったのかは疑問だが。

それとのつながりで思い出すのは,蛤御門の変で死んだ,長州の来島又兵衛は,お前たちは,

「而して」

と,ああでもない,こうでもないと,いろいろ言うだけで,結局何もしようとしない,と桂小五郎,高杉晋作,久坂玄瑞らの因循姑息な態度を批判したというエピソードである。

左様然らば御尤も
そうで御座るか確と存ぜぬ

には,まっとうに向き合い,ぎりぎりの決断をさせられるのを避けるというニュアンスがなくも,まさに前捌きたる所以である。

しかし前捌きだけで切り抜けられないときはある。あるいは,前捌きだけで,適当に世渡りするのが,今日流儀なのかもしれない。しかし,そうはいかないときがある。おのれの全存在を賭けても,しなければならない時がある。それをも,前捌きで,お茶を濁すのは,おのれの生きざまをお茶を濁すのと同じ,天に唾することだ。

サッカー・ワールドカップで約1カ月半の間,ブラジルに滞在した元サッカー日本代表監督の岡田武史さんが,少し前に,ちょっと長いが,引用すると,こんなことを書いたおられた。

安倍晋三政権が,集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈の変更を閣議決定したことを,ブラジルで知った。そんなことがあるわけはない,国会議員も国民もばかじゃない,まずは先送りだなと思っていたから心底驚いた。帰国して,何事もなかったかのような空気に,また驚いた。
大国間に生きる小国として,自衛隊の存在を含め,安全保障政策については憲法解釈で対応してきた。だが,集団的自衛権までは無理があるだろう。これでは立憲国家ではなくなる。国民投票をした上で改憲し,その上で集団的自衛権の行使を認めるのなら,納得せざるを得ないが。
国民の側にも責任がある。単に選挙権だけを行使すればよいというものではない。民主党の失敗が引き金と思うが,誰が政権をとっても一緒と,半ばあきらめが出ているように思う。民主主義では,国民一人一人が責任を分担する,ということを忘れている。(中略)
今,国民一人一人が「メディアリテラシー」(情報を読み解く力)を身に付ける必要があるのではないか。自分で疑い,考え,判断ができる。そんな教育を学校でやっていく。遠回りに見えるが,それしか道はないように思える。」(2014/08/17付 西日本新聞朝刊)

外からの視点で見ると,こういう発言になる。我々の常識が世界の非常識なのかもしれないのだ。

フィリピン,オーストラリアでは,日本の集団的自衛権を,

なにかあれば日本軍が助けに来る,

と受けとめていると聞く。これがまっとうな意味の,集団的自衛権の受け止め方だ。その意味で,岡田氏の違和感は世界での常識といっていい。

いまや,前捌きで適当にあしらって生きている状況ではない。

世の中は三日見ぬまの桜かな(大島蓼太)

という。

世の中は色と酒とが敵なり どうぞ敵にめぐりあいたい(蜀山人)
世の中は いつも月夜と米の飯 それにつけても金の欲しさよ(大田南畝)

という生き方が僕は嫌いではない。しかし,肝心要の時も,

ご無理ごもっとも,

しかとぞんぜぬ

とヘラヘラ受け流すなら,人としての格が問われる。いま,それぞれの格が問われている。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:37| Comment(0) | 世渡り | 更新情報をチェックする
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