2014年10月04日

葛藤


谷口克広『信長と将軍義昭』を読む。

冒頭で,昨今の研究の進展で,信長に関して,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140828-1.html

でも触れたが,

①『信長公記』の研究,城及び城下町の研究などで,信長の政権についての研究が目立つようになった,
②信長の革新性や強権性ばかり強調するのではなく,人間的弱点や現実的な面が知られるようになった,

ということを挙げて,「特に注目されるのが」

信長の権力と将軍の権力との関係

である,という。従来は,

信長の傀儡政権

とみなされてきた義昭の,将軍としての実権

が見直されてきた,という。で,本書は,信長が,義昭を奉じて,

「上洛前後から将軍追放までの約五年間を中心として,二人の関係」

を描こうとした。

信長政権と義昭政権の関係について,従来の,義昭政権は,

「『傀儡政権』論はもう通用しない」

という立場をとり,

「義昭政権と信長政権とは『相互補完関係』にあった,したがって,『二重権力』もしくは『連合政権』」

論にもとづいて,信長・義昭による政権を語っていく,という方向を著者は選ぶ。その例として,最近の論考を基に,

「上洛後のおよそ一年間に幕府が発給した文書は多数あるが,その中で目立つのは,禁制と安堵状である。久野(雅司)氏の2009年論文には,『足利義昭政権奉行人奉書・関係文書目録』が掲げられており,百五十二通の文書が記録されている。これによると,その期間には禁制十三通,安堵状五十五通を数える。そのすべてが畿内宛て,そして山城におけるものが大部分を占めている。幕府が畿内政権としての力を振るっていることを示す手がかりになるであろう。久野氏は,義昭のもとで実務に長けた奉行人などが,このような政務をきちんとこなしていたと評価し,結論として,義昭政権は決して『傀儡政権』ではなく,畿内における最大の政権として厳然として機能していた」

という考えに同意している。しかし,

備後鞆に移ってからも「鞆幕府」が存在したとか,幕府の終了は,義昭が豊臣秀吉に参礼した天正十五年(1587)である,という説はとらない。

「やはり義昭政権は,いかなる形にせよ元亀四年(天正元年)(1573)七月の追放をもって終わったと見なすべきだと思う。」

というのは穏当ではないか。発給すべき禁制も安堵状も,追放され毛利に頼っている状態では,出しようはない。

「その後の義昭の打倒信長の執念は延々九年間も続く。しかし,日本中の大名を総動員した大信長包囲網構想は,しょせん実現性のない義昭の妄想にすぎなかったと片づけてよかろう。」

と。そもそも,天下とは,後でも触れるが,

畿内及び京
京都の政権
世間

といった意味があるが,著者は,

「『天下』を政権の意味とするにせよ,人間社会の意味でとらえるにせよ,『京都』という地域をはずしては成り立たないことだけは間違いない…」。

だからこそ,義昭は,

「ひたすら京都帰還を思い描いて」

いたからこそ,御内書を乱発して,画策したのだ。しかし,上洛直後は,信長を,

御父,織田弾正忠殿

とまで呼び,『言継卿記』に,信長が京都を離れる折,

「おのおの落涙どもなり,御門外まで送らるる。」

とまで記された関係が,信長打倒の御内書を乱発するまでになったのか。決定的になったのは,有名な,

十七カ条の意見書

である。著者は言う。これは,

「この意見書内での信長の対義昭批判は,政策上などという次元に基づいたものではない。義昭という人物への不信,つまりもっと人間的な尺度から将軍としての品格を問うたものといえるだろう。」

という類のものなのだ。この中で,著者は二点に注目する。

ひとつは,「天下」「外聞」という言葉を何度も使っていること。天下には

①京都のこと,京都を中心とする畿内
②京都におかれた政権。幕府を指すこともあるが,将軍が在京することが条件
③漠然と世間,あるいは世の中。そこで起こる輿論。

といった意味があるが,信長は,

天下の為
天下の沙汰
天下の褒貶
天下の面目
天下の嘲弄
天下の覚え

という使い方を頻繁にし,天下を世間の噂,評判の意味として使い,

「信長はこの『天下』を足場にして,意見書において将軍義昭を批判している」

という。それは,義昭の失政を糺すのではなく,

「義昭の人間性に対するもの」

であり,

「世間は人間的に優れた将軍を望んでいる」

という主張になっていることである。

第二は,信長は,この意見書の写しをあちこちにばらまき,ついには,武田信玄の目にも触れて,

「信玄が信長は『ただの人間ではない』と唸ったという」

ほど,信長が流布させた。狙いは,

「いかにも『外聞』を重視した信長らしい」

宣伝活動になっている。この後,信長は,何度も決裂,講和を繰り返し,槙島城明け渡しでは,義昭の息子義尋まで取ったが,ついに殺すことはなかった。その信長の心理を,細川藤孝宛の書簡にある,

「公方様の御所行,是非に及ばざる次第に候,然りといえども君臣の間の儀に候条,深長に愁訴申し候のところ,聞こしめし直され候間,実子を進上申し候」

と,「君臣の間」という言葉を使い,自分の実子を人質にしてもいいとまで述べている。著者は,述べる。

「『将軍』の地位には,信長をもってしても越えがたい権威があった,としか言いようがない。この『権威』を背景にした『御逆心』に対しては,対処法が大変むずかしかったのだろう。」

と。結局義昭を追放にとどめたのは,だから,

「『外聞』に気を遣ったためである。『天下』の支配を目標とする信長にとって,『外聞』を無視することにより,『天下の執り沙汰』(世論)を悪化させてしまうことは,是非とも避けなければならないことなのである。」

だから,槙島開城,追放後も,再度堺で,義昭帰洛の交渉をもつ。しかし,この期に及んでも,帰洛の条件に,信長が人質を出すことに固執し,交渉相手の秀吉が,あきれはてて,

「いくら上意とはいえ,そんな難題を認めると大変なことになる。将軍は行方知れずになったようだ,と信長様に報告しておく。さっさとどこへなりと行かれるがよかろう」

と言い捨てて帰ってしまった,という。著者も,

「これほど落ちぶれていながらも,将軍位を保持しているだけで,いまだに優位に立っていると思っているのであろう。」

と書く。義昭は,二十人ほどの供と紀伊へ向かい,二年後,鞆へ移る。

「義昭は最後まで信長に負けたことを認めなかった。その意地は,ある意味で敬服に値するだろう。彼のこの意地を支えたものは,ひとえに『自分は将軍である』というプライドであった。彼の場合,将軍である自分が御内書の形で命令すれば,大名以下がその命令を奉戴して動くのは当たり前,と信じているのである。」

義昭が帰郷するのは,天正十五年(1587)のこと,翌年には出家して「昌山」と号す。そのときまで将軍であり続けた。

参考文献;
谷口克広『信長と将軍義昭』(中公新書)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:17| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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