情報
久しぶりにラッシュ時に乗り合わせると,まあ相変わらず(昔に比べるとかなり減ったが),右も左も,日経新聞を広げていること。これじゃ,日経の主張に感染するんじゃないか,と皮肉りたくなる。
別に僕は専門家でも現役ビジネスパーソンでもないので,きいたふうな口をきく資格はないが,皆が読んでいる情報源だと安心するんだろうか,と思いたくなる。同じ情報源でも,そこから読み取るものは,その人次第ということは確かにある。かつてのクレムリンウォッチャは,普通に発信されている情報から,現況の微細な変化を読み取ったと言われているのだから。
まあ,そういう例もあるには違いないが,僕は,誰もが読んでいるものなら,誰かに聞けばいいのであって,わざわざ一緒になって,それを読む必要はないと思う。電車内で新聞を読むこと自体を否定はしないが,どうせなら,人とは違うものを読んだらどうか,と思ってしまう。へそ曲がりのせいかもしれない。
情報とは,というと,たとえば,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod05111.htm
で挙げたように,クロード・シヤノンの,
「あるメッセージに含まれている情報の不確実性を減らすために必要な量の情報をシャノンは,次のように定義した。情報量I,得られる可能性のあるメッセージ数Mとするとき,I=log2M あるいは言い換えると,M=2I 。情報量を1単位ふやす毎に,不確実性は半分になる。つまりMはI回の二者択一の結果,発生確率1/2での等分割のI回の繰り返しとして表現できる。」
とか,N.ウィーナーの,
「情報とはわれわれが,外界に適応しようと行動し,またその調整行動の結果を外界から感知する際に,われわれが外界と交換するものの内容である。情報を受けとり利用してゆくことによってこそ,われわれは環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき,そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。」
を採りたがるかもしれないが,ぼくには,金子郁容の
「情報とは,『伝達された(る)何らかの意味』である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。」
「コード化できる情報を『コード情報』と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を『モード情報』と呼ぶ。」
や,ピーター・F・ドラッカーの,
「情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。」
や,グレゴリー・ベイトソンの,
「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」
等々がお気に入りである。ここから自分なりに感じたことは,
・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)
ということであり,さらに,
・情報とは差異である(ベイトソン)
ということだ。ということは,コード化できる,
コード情報
ではなく,コード化できない,
モード情報
こそが大事ではないかという思いにつながる。それは,言い換えると,
いま
ここ
(で得られるもの)が大事ということになる。いま,ここの変化は,いま,ここにいるものにしかわからない。その瞬間にしか得られない,という意味だ。それは,コード情報では決して得られない。
ある意味,新聞情報は,
・自己完結している→文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない→情報は向き(意味づけ)を与えられている
・丸められている→抽象化されている
ものでしかない。そこからよほどの読解力があるならともかく,そこにある情報を読んだところで,皆と同じ程度,あるいは記事の書き手の送っている情報以上は読み取れないのではないか。
本来,情報は,
ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている。しかし,言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。
その意味で,すでに丸められ,意味づけられてしまっている。
どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。
つまり,情報(報告/記事)には3つの偏りがある。
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)
その言語を受けとめるのは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶,手続き記憶に基づいて,つまりは体験に基づいてイメージを描く。読み手は,そのコード情報を,自分のモード情報で具体化し,読み直す。
その意味では,モード情報をどれだけ持っているかが,情報の読みを変える。とすれば,新聞を読んでいる暇に,車内を見まわし,いま,ここでしか取れない情報を感じ取った方がいい。
女性のファッションかもしれないし,
女子高生の生態かもしれないし,
車内の中吊り広告かもしれないし,
車内の年齢構成かもしれないし,
車窓に移る沿線の変化かも知れないし,
車窓の季節の変化かもしれないし,
等々,その蓄積が,コード情報の読みを深めるような気がしている。新聞情報に振り回されない独自の視点が必要だが,それは,コード化できる意味ベースでは決してないと思っている。
参考文献;
金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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