2014年10月11日
ニーズ
少し前のことになるが,あるワークショップで,こういうワークをした。
自分がしたいと思ったことをまず書く。なりたい,したい,ありたい等々。
続いて,それが実現したらもたらされる不快な状況,ふるいは不快感を書き出す。たとえば,
誰にも見向きもされない
とか
マイナスばかりが目立つのではないか
とか
くだらないことをしやがってと悪口を言われる
とか
酷評される
とか
といった自分にとっては,心理的に不愉快な状況が思い浮かぶことで,人から,あるいは,自分自身で,どう裁かれるのが怖いか,を挙げる。たとえば,ひとから,
やっぱり才能ないね,
とか
ほら見たことか,
とか
あらが目立つね,
と裁かれたり,自分自身も,
そんなことをする資格がない
とか
結局後悔するだけだ,
とか
能力がない
とか
自分の能力では難しい
等々裁いたりする。つまり,自分の夢については,「無理」とか「才能ない」と自分で意味告げていることになる。しかし,上記の自分への裁きは本当だろうか,その恐れや思い込みが,自分が足を踏み出すのを妨げているのではないか,ということに気づく,というものである。
自分の書き方が正しいかどうかはわからないが,自分の中の思い込みが,自分の脚を引っ張っているということは,確かにある。ただ,一方で,そうやって思いとどまることで,自分がやりたいと思っていることが,単なる
思いつき
で,あまり深く考えていなかったことだ,ということに思い至ることはあった。その意味で,ニーズ(自分の求めていること)に適うか適わないかの目安が,
心地がいいか悪いか
というのはよく分かる。不快というか,気分が乗らないというのは,確かに本当には望んでいなかったことなのだろう。
思うに,恐怖は,扁桃体に関わる,人間の基本的な情動で,これが生きのびる基本なのだから,当たり前と言えば当たり前だろうとは思う。
やりたいと思って始めても,どこかで,嫌がっている自分がいるときは,続かないし,やめたいと思う。それでも,自分の役割として,また責務としてやらなくてはならないことはあるし,それをきちんとやるのが,責任をとることとは思うが,それを果たすと,さっさとその役割から降りてしまうところが,僕には確かにある。
ただ僕は,このワークをしつつ感じたことは,
したい,
と思うことが
出来ない,
やれない,
やらない,
のがぼくの問題ではなく,やったことのレベルを気にしている,ということなのだと思った。やろうとしたとき,若い頃はそうでもなかったかもしれないが,いまは,あまり,
畏れ
を感じることは少ない気がする。
人を豈勝(た)えざるを以て患(うれ)いとなさんや,為さざるのみ
と『孟子』にある。自分の力の足りないことに苦慮する必要はない,ただやろうとしないだけだ,と。
僕は,むしろ,考えるより前に,まず踏み出してしまう,ということのほうが多いような感じがする。歩きながら考えるタイプなので,迂闊というか,軽率にやってしまったが,やはりやるべきでなかったということが,結果としては多いかもしれない。
そんなこと無理,
とか
できるはずはない
というより,できるか出来ないかは,やってみればわかる,というタイプに近いということだ。
むしろ,いまは,やってしまった結果の
できばえ
のほうが気になる。それは関係ない,と言われるかもしれない。自分がやりたいことをやったので,人が何と言おうと,関係ない,という考え方はあるだろうが,僕は,自己完結した中で自足できるほど,神経が太くない。
やれりたいと思って始めたことは,98を手に入れてすぐ,手探りで,
ホームページ制作
から始まって(一日400件余までいった),ブログ,ツイッターと,とにかく踏み出してしまう,ということはする。そして,それが必要なら絶対続けることもする。
しかし,その出来栄えこそが,ぼくにとっては重要で,自分だけの評価で自足できず,といって,それは自分の意思から離れ,コントロールできない。そこに,僕のニーズがあるとすると,それは,
コントロールの埒外
であることだ。だから,その時々で,自分の欲していることとずれると,ストレスがたまる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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