2014年10月12日


ツイッターに,こんな投稿があった。

「新幹線で子供がめっちゃ騒いでて,親は放置の構え。

そしたらその隣席のお客さんが微笑み顔で子供に向けて

『かわいそうだねオマエ。躾もしてもらえず,ずっと迷惑かけ続けるんだねぇ。』

って。親は顔真っ赤にしてあたふたしてた。

そういう攻め方もあるのかと妙に感心してしまった。」

いや,確かに,感心してしまう。

躾は,

身+美

で,日本製の漢字。峠と同じ。

礼を学ばずば,以て立つ無し

と。孔子は,息子の孔鯉に言った。孔子は,

礼を知らざれば,以て立つ無き也

と,別のところで言っている。

自分のことしか見えなくなっている人が多い。そういう人には,他人はそこにいない。いないと考えなければ,普通,車内で,化粧をしない。素の顔が,最後完璧に化けるまでを目の前で目撃されても,そこには,人はいないのである。その年齢が,

いい歳

をした世代にまで上がって来たのに,吃驚させられた。そう,考えれば,若いときにそうしてきた人は,いまや,そういう年齢になってきたのだ。別のところで書いたが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406796201.html?1412798497

箸の持ち方がおかしい人が増えた気がする。鉛筆の持ち方が,どう考えてもそれでは書きにくいだろうという持ち方の人も目につく。文化というなら,あるいは,

日本的

というものを貴ぶなら,まず隗より始めよではないのか。

躾を,ウィキペディアは,

「しつけ(躾・仕付けまたは仕付)とは,人間または家畜の子供または大人が,人間社会・集団の規範,規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように,訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。ドイツ語では,しつけのことを,die Zuchtというが,これは人に限らず動物(家畜)の調教,訓練の意味もあり日本語のしつけと同じである。」

とし,こう付け加える。

「なお裁縫(特に和裁)では,ちゃんとまっすぐに縫えるように,「あらかじめ目安になるような縫い取り」をしておくこと,それに沿って縫っていくことを仕付けと言う。」

と,見事である。そして,

「『やって良いこと(=誉められる)』『やってはいけないこと(=罰せられる)』の区別をつけさせる」

とも。そこにあるのは,



ではないか,と思う。恥については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404516184.html

で触れたが,

恥を知るは勇に近し

という。恥ずかしいと思い知る,ことは,「這っても黒」ということ以上に勇気がいる。

過ちを認める勇気

である。『孟子』は,

恥ずることなきをこれ恥ずれば,恥なし

と。だから,

過てば則ち改むるに憚ること勿れ

なのである。しかしである。それを「過ち」と認識できなければ,たとえば,是非善悪を躾けられていなければ,おのれの過ちには気づけない。気づけなければ,それを恥とは思わない。

嘘を言っても平然としていられるどこかのトップは,たぶん,是非善悪を躾けられなかったに違いない。だから,恥を知らないし,恥ずかしがることもない。

恥じらいの心が耳に出る,

等々ということはないのである。

子を見れば親がわかる,

とは,ある教育実践者の漏らした述懐である。

この親にして,この子あり,

である。親の顔が見てみたいものである。

子どもを放置して,躾けないことは,一種の,

無視

と同じである。つまり,

ネグレクト(養育放棄)

である。その見本が,今日,世界に恥をさらしている。ひとごとではないのである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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posted by Toshi at 05:58| Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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