テンポ
ほぼ一ヵ月ほど前になるが,久しぶりに柳家一琴の会にお邪魔して,噺を二席うかがった。
いつも思うのだが,落語の語り口,あれは江戸弁なんだろうが,あのテンポは小気味いい。たぶん,ふだんの江戸っ子のしゃべり方を,もっと洗練させたたというか,研いだ形なんだろうと思う。
あのリズム,テンポが江戸っ子の気風をあらわしている。
テンポとは,時間である。拍をどれくらいの速さで打つか,である。拍を速く打てば1拍の長さは短くなり,拍をゆっくり打てば1拍の長さは長くなるが,拍をどんな速さで打っても,つまりどのテンポでも,1拍は1拍であり,そのことに変わりはない。その拍と拍の間が,間となる。
言葉と言葉の間ではないのに,音と音の間が,ことばのテンポを左右する。間とは,何もない沈黙のはずである。しかし,その間が,喋りのテンポ,リズム,口調を支配する。
あのしゃべり方は,独特の間だと思う。間については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html
や
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163296.html
で触れたことがあるが,
言葉と言葉の間,
音と音
という意味だけではなく,たとえば,五代目志ん生の「火焔太鼓」を分析して,野村雅昭氏は,
・聴衆の反応を確かめる間
・聴衆の笑いの鎮まるのを待つ間
・場面転換を示す間
・発話者の非言語行動を示す間
・発話者のオーバーラップを示す間
・発話者の躊躇いを示す間
・演者が強調の効果を意図する間
というのを示していた。どうも,これは,確かに間には違いないが,あくまで,話の中の転換や,やり取りの呼吸を示したりするもので,僕のイメージとは,ちょっと違う。そんなことを言うと,
高座へ出來るときの,出囃子と,ご自身がすっと出てくるときの間,
出て一瞬会場を見回す間,
座布団の上に坐る間,
それから,お辞儀をする間,
向き直って,口を開くまでの間,
枕から,噺に入る間,
落ちを付けてから,頭を下げるまでの間
等々いろいろな間がある。それは,噺家の立ち居振る舞いに違いないが,そこには,本名で生きておられるテンポとは違う,高座に上った噺家何某の独特の仕掛けに見える。これも確かに間なのだが,僕は,ことばのリズム,独自に話していく,テンポをここでは考えていた。作家の文体に対して,
「話体」
という表現を,野村雅昭氏は使っていた。それは,柳家小三治が,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/405538611.html
で書いたように,対談で,
「俺がやりたいのは,本を素読みにしても面白くないのを,噺家がやると,こんなに面白くなるのかい,って噺にしたいわけ。」
ということにも通じる気がする。
前にも書いた気がするが,徳川夢声は,間について,
「マ」とは虚実のバランスなり,
「話術」とは「マ術」なり,
「マ」とは動きて破れざるバランスなり,
と言っていたという。言葉を追っていると,気づかないが,言葉と言葉の間の空白である。それがリズムを作る。ある面,呼吸の仕方とは別である。
「人まねではなく自分の噺をしなくちゃいけないということは,間の問題でもいえることです。しかしその人の体に適った本当の口調というものは,芸が出来てそののちの話で,そうなって初めて本当の自分の間だと言えるわけでしょう」
と六代目円生が語っていたというのが,それである。たとえば,
「そうともいいます」
と言うのでも,
「そう○○と○も○いいます」
というのと,
「○そうとも○○いいます」
では,(もちろん,強弱や抑揚もあるが)違う印象になる。しかし,ひとには人の呼吸に合った自然のテンポがある。あるいは,思考のテンポと言ってもいい。
僕は早口らしいのだが,そのスピードは,多分頭の中で浮かんだことを言葉にしようとするスピードと合致している。しかしその場合,自分の考えるテンポに合わせて,無意識で話している。
しかし,ここで芸としての間を言うときは,少し違うのではないか。話を,構成として,語りだしていくという意味では,作品を書いたり,描いたりするのと似て,語りをコントロールしていく。だから,筆遣いやタッチと似ていなくもない。つまりコントロールできる。
少し大げさな言い方をすると,噺についての世界観があって,それを自分の口からどう語りだすか,の工夫である。間もまた,その手立ての一つである。間は,
芸が出来てそのののちの話
と言うのは,そういうことなのだろう。しかし,その人の目指す境地が,
「通りすがりの人がたまたまそこに咲いている花に目がとまって,ああ,いいな,と思うような感じで自分の落語を聴いてもらうのが一番いい。」
と言う小三治のような世界なら,間合いは,またそうなっていく。そのとき,その人の「体に適った」というのは,
その人の息遣いにふさわしいものに落ち着いていく,
ということなのか。それとも,
息遣いも変わっていくのか。
この機微は,結局工夫した方にしかわからないことなのだろう。
分からないで書いているのも,ちと恥ずかしい。
参考文献;
野村雅昭『落語の話術』(平凡社)
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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