2014年10月18日
トリエンナーレ
ヨコハマトリエンナーレ,
http://www.yokohamatriennale.jp/2014/index.html
に行ってきた。地元にいながら,初めて訪れた。
トリエンナーレ(Triennale, Triennial)とは,3年に一度開かれる国際美術展覧会のこと。原意はイタリア語の「3年に一度」,
だそうである。因みに,
ビエンナーレ(biennale)とは2年に1回開かれる美術展覧会のことである。原意はイタリア語で「2年に一度」だ,そうである
横浜トリエンナーレ(よこはまトリエンナーレ,Yokohama Triennale)は,横浜市で3年おきに開催される現代美術の国際展覧会。
http://www.yokohamatriennale.jp/about/index.html
今回は,
華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある
というテーマで,もちろんこれは,
「華氏451の芸術」というタイトルは,言うまでもなく,レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来している。いわゆる焚書がテーマの小説で,本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
という。そのコンセプトは,
「忘却の海へと向かう冒険の旅
ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々
そして、大胆な世界認識を持ちたいと望む
すべての人々と共に
「芸術」という名の舟に乗り込み
「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである」
という。
このトリエンナーレのディレクターの森村泰昌氏は,こう書いている。
「これから私たちは,序章と11の挿話からなる
『忘却めぐり』へと旅だとうとしている。
語られないもの,語ってはならないもの,語りえぬもの。
見えないもの,見てはならないもの,見たくないもの。
とるにたらないものや,役に立たないもの。
失敗や敗北。
それら,記憶世界に残るすべもなく,どこかへと消えていった
膨大な数の忘れものに思いを馳せる旅である。
『芸術家』とは,忘却世界にむけられたまなざしの力のことをいう。
私たちは知らないふりをしていたり,
うかつにも見落としていたり,まったく眼中になかったり,
そういう忘れものに敏感に反応する超能力のことをいう」
として,会場は,
序章1 アンモニュメンタルなモニュメント
序章2 世界の中心にはなにがある?
第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける
第2話 漂流する教室にであう
第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか
第4話 たった独りで世界と格闘する重労働
第5話 非人称の漂流~Still Moving
第6話 おそべき子供たちの独り芝居
第7話 光に向かって消滅する
第8話 漂流を招き入れる旅,漂流を映しこむ海
第9話 「華氏451」を奏でる
第10話 洪水のあと
第11話 忘却の海に漂う
と物語を辿ることになっている。
必ずしも新作ばかりではなく,ルネ・マグリットあり,松本竣介あり,アンディ・ウォーホールあり,ジョン・ケージあり,と,有名無名が,テーマに沿って並べられている,ということになる。
ただ,専門家ではないので,素人の印象だが,コンセプトの仰々しさの割には,現代美術のもつ破壊力はなく,なんとなく,飼いならされたという印象を持った。それが,市主催ということの限界なのかどうかは知らない。
自分が面白かったのは,「第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける」に置かれた,ジョン・ケージの,
何も書いていない五線譜
である。三楽章の4分33秒の空白を,その時間だけ立ち止まり続ける堪え性はなかった。
もうひとつは,「第4話 たった独りで世界と格闘する重労働」に置かれた,福岡道雄の
飛ばねばよかった
と題された,
「ため息を象ったとされるバルーンと空中に浮かぶ人形」
の造形である。バルーンは,内臓にも見える。バルーンを握った掌だけのものもある。ひどく,孤独というのもあるが,悲惨に見えた。そう,後悔そのものを写していると見えた。
いまひとつは,「第10話 洪水のあと」に置かれた,ディン・キュー・レの
「南しな海のピシュクン」
と題されたフィルムで,海面に,次々とヘリコプターが落下するのをひたすら写すフィルム。ただ単純なのだが,次の墜落を期待しながら見ている自分に気づいておかしかった。その意味が分からなかったが,後で,見ると,サイゴン陥落で,ベトナムから脱出しようとした米軍ヘリコプターが燃料不足で次々墜落するというイメージらしい。しかし,その意味が分からなくても,末世というか,終末を感じさせる。そこに,情緒を写さず,淡々と墜落させ続けるのが,悲惨である。しかし悲惨はまた, 部外者には滑稽に見える。
創造というのは,そこに,新しい視界,パースペクティブを開くものでなくてはならない,というのが持論である。
それは,
新しい風景を開くもの
であり,
まったく違う窓枠を開くもの
であり,
今までなかった視点を提示するもの
であり,
それを見せられたことで,世界を見る見方が変わる,というものでなくてはならない。
一方で,そこで描かれた世界は,リアル世界に依存しない,つまりリアル世界の意味と接続しないと理解できない,というものではなくリアル世界の文脈から独立した,そこに,独自の世界を現出させるものでなくてはならない。
しかし,他方,そこに自足して,ただその世界を閉じたものにしない,リアル世界と戦うものでなくてはならない。リアルなものの見方や価値を覆すものでなくてはならない。
その意味で,
ケージの楽譜
を超えるものは,僕には見つからなかった。
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